北杜市は今やメガソーラーのメッカと言われるほど、その施設が乱立している。生活権、財産権の侵害だとして提訴が起こされる程の状況だ。市の規制が全く無いから、FIT制度---売電価格を20年間保証---の下、金を儲けようとする亡者達/資本が殺到し、あちこちの広大な森林を伐採、そこにパネルを設置。何と設置済みの数1000超、申請件数4000超。「再生可能エネルギー」の普及という美名の下に----

市は山梨県が2015114日に策定した「太陽光発電施設の適性導入ガイドライン」との整合性を図るために、やっと景観計画の見直しを始めたところ。県の対応も遅いが、市は自らが主体性をもって始めた訳ではないと言う相変わらずの姿勢

この景観計画変更に対するパブリックコメントの募集があり、それに応じたのが、下記。生物多様性についてはすでにブログで触れているが、ここでも強調しておきたい。

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景観計画変更に関するパブリックコメント

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【二つの視点から景観計画を考える】

1 生物多様性の世界へ思いをはせる姿勢=市政

生物多様性ということが叫ばれてから久しい。生物多様性とはただ様々な生き物がいるということではない。その生物たちがお互いにつながって存在しているという意味。命と命がつながっているということ。生物という以上、人も当然その生物多様性を構成している生きもの。

この生物多様性の世界は食物連鎖と言う名のピラミッド型として表現される。最下位にいる生きものはその直ぐ上の2番目の生きものの食べものになる。下位の命を得る事で、上位の命が存在する。そして次の3番目にいる生きものの食べものとして、命を提供する。これが繰り返されてピラミッドの世界を構成する。この生物多様性の世界の掟=食物連鎖とは違う外敵---例えばそれは災害であったり、また人による開発であったり---によって、ある1つの生命体が奪われてしまえば、他の生命体は当然危険にさらされる。

人はこのピラミッドの世界のどこにいるのかと言えば最上位。上位に人の命を餌にする生きものがいない、この世界を独り占めしているのが人という生きもの。太古の昔から人は生物多様性が作り出して来た恵み=生態系サービスをすべて受けることでその命を維持してきた。しかしこの生物多様性の世界=生態系が崩れた時、当然人の命にも危険が迫ってくることは明らかだ。

最上位にいるがために、人はこの世界に対し傲慢に振る舞ってきた。何をやっても構わいはしない。かくてあらゆる人の行為は生物多様性の世界を壊すことになる。その行為が回りまわって自分の命の危機をもたらすことに気づかないまま人は生物多様性の世界へ土足で入り込む。

メガソーラーは森林伐採をしたり、土地の形状を変更したりして設置されることが大半だが、この行為は明らかにピラミッド型への挑戦。この行為が廻り廻って、いつの日にか人の命を危機にさらしてしまうことに気がつけば、この生物多様性の世界に対する付き合い方を再考できるはずである。

市政がよもや人の、なかんずく市民の命をないがしろにしているとは思わないが、「景観計画変更」の文面の中で「出来るだけ---」「配慮する---」などと言っている現状では心もとない。

2 金儲けの手伝いをしない姿勢=市政

市内に乱立するソーラーパネルはFIT制度に負うところが多い。20年間売電価格が維持されると言うこの制度は金儲けを企てる人達=資本が跋扈するのを許してしまっている。「再生可能エネルギーの普及」という美名の下に行われているメガソーラー発電の本質は実は金儲けに過ぎない事が乱立するメガソーラーを通して見えてくる。

規制の緩い地域に狙いを定めてパネルを設置しようとするのは資本にとっては当然の論理。北杜市がそのターゲットに成り果て、パネルが乱立しているのは規制が緩い、否、規制が無いからに他ならない。

金儲けをしようとする特定の資本のために行政があるわけではない事は言うまでもないが、乱立するメガソーラーを認めている=放ったらかしにしているのは結果として、市政に対する誤解を生んでしまう。

この誤解を解く途は厳しい規制を実施する事によってしかない。

《二つの視点から考える抜本的対策》

1 「景観計画変更案」の文面中の「建築物へ設置するものを除く」ではなく、逆にソーラーパネルの設置は既存の工作物(住宅、工場など)の屋根の上に限定し、それ以外は一切認めないとする。

2 上記の規制は既に設置されたソーラーパネルにも適用し、原状復帰を義務付ける。

さらに付け加えれば

「できるだけ」「配慮する」などと言うどうとでも解釈できる言葉は使わない。



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2015年9月12日、中部横断自動車道沿線住民の会の「環境アセス」勉強会で「生物多様性」について、改めて学び直した。講師は伏見勝さん。伏見さんは日本自然保護協会の自然観察指導員。山梨県庁の農政部職員でもある。

「生物多様性とはただ様々な生きものがいるということではない。その生物たちがお互いにつながって存在しているという意味だ。命と命がつながっているということ。生物という以上、人も当然その生物多様性を構成している一つの生きもの。 この生物多様性という世界ではあらゆる生物はひと繋がりの一体のものとして成り立っている。だからこの世界ではある生命体の種が壊滅すれば、他の生命体の存在の危機に直結している。それが生物多様性と言う世界」

伏見さんは明解に解いた。つまりはこれは言い換えれば自然の事だ。自然=生物多様性。
この生物多様性の世界は食物連鎖と言うピラミッド型として表現されている。最下位にいる生きものはその直ぐ上の2番目の生きものの食べものになる。下位の命を得る事で、上位の命が存在する。そして次の3番目にいる生きものの食べものとして、命を提供する。これが繰り返されてピラミッドの世界を構成する。この生物多様性の世界の掟=食物連鎖とは違う外敵---例えばそれは地震や津波、火山の噴火などの自然現象であったり、また人による開発であったり---によって、ある1つの命が奪われてしまえば、他の命は当然危険にさらされる。

人はこのピラミッドの世界のどこにいるのか。人という生きものの上位には生きものがいないから、人は最上位。つまり人は生物多様性が作り出して来たあらゆる恵み(=生態系サービス)をすべて受けることで、しかも無償で入手する事でその命を維持している。しかしこの生物多様性の世界=生態系が崩れた時、当然人の命にも危険が迫ってくることになる。

上位に人の命を餌にする生きものがいない、敵がいない、つまりこの世界を最後に牛耳っているのは人だから、この世界に対し傲慢になる。何をやっても構いわしない。ここから自然を征服しようとか、技術を駆使すれば何でも可能だという発想が生まれてくる。
かくてあらゆる人の行為は生物多様性を壊すことに繋がっていく。その行為が回りまわって自らの命の危機をもたらしてしまうという事に気付かないまま、あるいは意識的に忘れて、人は生物多様性の世界へ土足で入り込む。

例えば原発---

福島原発での原発爆発=原発震災はもちろんの事、通常運転中でも原発は海水温め装置と言われるくらい、タービンを回す蒸気を冷却する必要があるが、そのために海水が利用される。熱交換されて温かくなった海水が海に戻され、周辺の海水温を温める訳だが---1秒間に70トンの海水を7~10度C上昇させるエネルギーとして、それも放射性物質を伴って----当然、そこの海の生態系は影響を受ける。魚や藻、貝などの命はどうなっていくのか。
また現在、海や地下へ垂れ流し続けている福島原発の汚染水は生態系にどう作用しているのか。
見えない事をいい事に、因果関係を証明できない事を免罪符にして、原発の稼働を続けて行く。
これは人間による生態系=生物多様性の世界への「犯罪」である。全生物に対する明らかな敵対行為。しかもそうであるだけではなく、その結果は巡り廻って、実は人の命を奪う事に繋がっているという自殺行為でもある。


生物多様性の世界を物差しにすれば、あらゆる人の行為は「犯罪」と言えてしまう。辺野古の新基地建設しかり、リニア、乱立するメガソーラーパネル、そしてなによりも中部横断自動車道の延伸工事等、公共工事と言われるものはすべてこの世界への破壊行為だ。もちろん公共工事だけではなく、私達の日々の生活も小さいながらも生態系を壊している。

では人はこの世界とどう付き合えばよいのだろうか。どう振る舞えばよいのだろうか。
人が生きて行くのに欠かせない、空気や水をどこから得ているのかと言えば、言うまでもなくこの生物多様性の世界=自然界=生態系から。もちろんすべての生物がこの恩恵を対価を支払わずに得ている---出発点はここにある。まさに生かされているという事。

〈この項続く〉
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僕の暮らすこの界隈でも、この3月11日に反原発のパレード、昔風に言えばデモがあった。主催したのは「4月3日の広場」。このパレードの後、映画「日本と原発」の上映会があった。この映画は福島原発告訴団の弁護団代表の河合弘之さんが監督したもの。

この「日本と原発」の中で一番僕に届いた言葉、それは浪江町の町長、馬場 有さんの言葉------

「悔しい」

浪江町は今も放射線量が高く町の多くの地域が帰還困難地域。おそらく今後避難の解除がされるとはとても思われない。現在、役場は二本松市に避難している。

ここに住んでいた人たちの声を町長は涙を堪え、自身の思いも込めて「悔しい」と言ったのだった。悲しいでもなく、辛いでもなく、一言「悔しい」と言ったのである。

原発震災によって、放射線に被爆し、将来に亘って健康不安にさいなまれ続ける人たち。

長年住み慣れた家を故郷を着の身着のまま追われた多くの人たち。

職を失い、新たな収入を得る道を今もって見つけることが出来ない、多くの人たち。

津波によって命を失った家族への思いを抱き続けながらも、何とか前を向いて、健気に生活して行く人たち。

近くの知人や友人たちとも引き裂かれ、どこに行ってしまったのか、その消息すら今もわからないままの人たち。

些細なことから、将来の事まで、ちよっとした事をきっかけに諍いが始まり、家族関係が壊れ、バラバラに暮らすしかなくなってしまった多くの家族。

あちこちの避難所を転々としながら、やっとたどり着いた仮設住宅。衝立で仕切られただけの体育館などの避難所に比べれば、隣家の音がまるまる聞こえてしまうとしても、プライバシーは少しは保てるから、いくらかは気を休めることができると、自分に言い聞かせる人たち。

もともと仮設住宅は設計上、2年間と言う耐用年数しかない上、施行のいい加減さから、床が傾いたり、建て付けが悪いので、隙間風が通り抜けたりする。そのうえ、耐用年数を過ぎた仮設住宅は時に雨漏りが始まる。その場かぎりの正に仮設としか言いようがない所でも、雨風が凌げれば良しとして、そこに留まって暮らさざるを得ない多くの人たち。

厳しいとしか言いようがない避難生活の中で、持病を悪化させ、亡くなってしまった人や誰にも気づかれずに亡くなった人たち。

将来を見つめることができずに、自死する道しか残されていないと思い詰めてしまった人たち。

あろうことか、まだ被災者ずらしているのか、たっぷり保障金をもらったんだろう、と言う影の声が被災者をさらに追い詰める。

自らその道を選んだわけではない。もとより好き好んで選んだわけではない。すべては原発震災がもたらし、強いられてしまった結果なのだ。

にも関わらず、東電や政府は今もって自らの責任を誰1人としてとろうとはしない。すべてを津波のせいにして。それどころか、各地の原発の再稼働を画策し、あまつさえ海外への原発の売り込みを官民あげて企てる。

浪江町の馬場町長は2014年1月25日の青森の講演で、「私どもの基本的人権は全て失われている」として、その悔しい思いを語っている。憲法の条文をあげ「私たちは幸福を追求してはいけないのですか」「私たちは最低限の生活をする権利を持ってはいけないのですか」と。

浪江町は東電福島原発のある町----1~4号機がある大熊町と5~6号機がある双葉町----に隣接していながら、原発立地の直接的な自治体ではなかったから、東電や政府からの事故連絡はまったくなく、頼りにしたのは役場にかろうじて残っていたテレビのみ。つけっ放しにしたテレビの報道によって原発の爆発を知り、緊急の行政無線で当初は10キロ、次は20キロと、町民に避難を呼びかけ----町民は何も持てず、着の身着のまま、ひたすら遠くを目指して、逃げて行く。

「悔しい」

この一言に込められた思いを理解するのはそう容易い事ではない。原発震災を被った人にしか、理解できないことなのかもしれない。「そう簡単に理解されてたまるか、お前らに解るはずはない」----想像するに難しくはない。
それでも彼ら被災者の気持ちとの距離を縮め事が出来るとすれは、僕らにただ一つ残されているのは想像力をおいて他にない。あるいは今度は自らが原発被災者になることによってなのだろうか。

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4月3日の広場のHPは以下を参照。
http://space43.blog.fc2.com/

2015年3月11日のパレードは以下参照。
https://www.youtube.com/watch?v=Ldd5oDwwXW8&feature=youtu.be

福島原発告訴団のHPは以下を参照。
http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/

映画「日本と原発」の公式HPは以下を参照。
http://www.nihontogenpatsu.com/team

浪江町の町長の青森講演は以下を参照。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/122495

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# by kyureki | 2015-03-15 23:39 | 反原発


蓼科山から八ヶ岳、南アルプスを見る
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      戦争はいつ始まるの? 

      日本を攻撃し、勝利する方法は57基ある原発狙え

      ばそれで良い。全て海沿いにあるので、こんなに容

      易いアプローチは無い。その上、空からの攻撃に対

      しては全くの無防備。日本を壊滅に陥れることが

      100%可能だ。ただし約束して欲しい事がある。

      攻撃する前にまたとないチャンスを与えてくれた原

      子力発電所へ謝意を伝える事。

      さあ、用意は整った。いざ!


      原発とは自国民に向けられた核兵器---これ程鋭く

      原発の本質を突いている言葉を知らない。

       

      フクシマ511


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# by kyureki | 2015-01-06 23:47 | 核兵器

2015年賀状 その1 


d0229170_22521226.jpg
          元旦、雪の中、御神楽が舞う。近所の船形神社へ初詣

       頂上に辿り着けずに気が付けば下り坂。証明書

       も見ずに高齢者割引券を渡され、免許証更新に

       出掛ければ認知症検査。無違反なのに更新期間

       は3年だと。ときめく心がやたらと早いと思っ

       たら、これが動悸の始まり。何やかやでここま

       で生きてきて齢、何年か。年末目指して何とか

       行ってみるとするか。---ある方の賀状から無断

       1部拝借引用


       フクシマ511


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◎始めに
この本、原子力市民委員会編『原発ゼロ社会への道--市民がつくる脱原子力政策大綱』はタイトルにあるように、原発ゼロ社会への道筋を作る政策である。だからこれらの政策の実施を積み重ねて行けば、原発ゼロ社会に繋がって行くと思われる。
さらに同時にこれらの政策は原発ゼロ社会宣言後に取りうるものを列記したものでもある(ただし再生可能エネルギーの全量買い取り制には問題がある。これについては、僕のブログ----ソーラーに夢見た僕ら---を参照http://tanemakist.exblog.jp/20934027/)。
と言う事から、この本には出ていない政策を、「原発ゼロへの積極的停電」という政策を提案したい。
原発ゼロ社会宣言をしたからと言って、一気に原発がゼロになるとは思われないし、宣言する以前から、この政策を実行して行く事が原発ゼロ社会に少しでも近づく道になるのではないかと思うからだ。
◎この停電政策の狙い
1 原発震災を記憶し続ける事
2 原発および関連施設を数として意識化する事
3 エネルギーの過剰使用を意識化し削減を模索する事
◎実施要項
毎月11日14時46分から全国一斉に停電をする。スタートは3月から。所要時間は国内の原発(57機)とその関連施設(19か所/下記註参照)及び海外輸出の数に比例する。始めは76分----76か所分から。
 廃炉、施設閉鎖、輸出の減少に伴い、その数は減っていく。逆に増加した場合は増えて行く。稼働していなくても、廃炉、閉鎖を決定しない限り、国内原発ゼロ、関連施設ゼロ、輸出ゼロになるまで続く。 
対象は個人、企業を問わず、日本中全て。不都合な人、企業等はその必要なエネルギーを自給して賄う。
◎具体策
これはキャンドルナイトのように個人レベルでやるものではない。全国一斉に停電をする。当然、この政策を全国的レベルで始めるには電力会社に停電を求める事になる。最初の段階から原発ゼロ社会への協力を要請するという困難から始まる。原発ゼロ社会宣言後の方が協力を得られやすいと思われるが、この政策はゼロ社会を求めて行く政策でもあるから、原発ゼロ社会宣言を待たずに実施して行く。
◎課題1 
京大等の大学の研究炉はカウントするのか。

★註
原子力発電所以外に原発関連施設として社団法人日本原子力技術協会は以下のように施設を3つに分類している。これらの施設は合計19か所。そしてこの協会に加盟している企業は建設会社、プラント会社、バルブ会社、製鉄会社、運輸会社等123社(2,011年7月現在)あり、これらもカウントするのかどうか。カウントして行けば停電時間はさらに伸びることになる。
1<燃料加工施設>
原子燃料工業/3か所
三菱原子燃料/1か所
日本原子力研究開発機構/1か所
グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン/1か所
2<研究炉>
日本原子力研究開発機構/ふげん、もんじゅ、常陽等8か所
3<その他施設>
日本原燃/六ヶ所村の再処理施設など4か所
日本原子力研究開発機構/東海再処理工場 1か所

(この協会のHPはhttp://www.gengikyo.jp/facility/index.html)

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# by kyureki | 2014-12-26 22:57 | 反原発
自公の数を減らすーーー今度の選挙の私的課題

以前の僕ならば、棄権でしょうね。

元レバノン大使、天木直人さんがブログで書いている選挙ボイコット運動は面白そう。でも誰かが提案しないか、自分ではなく、と言うくだりは、なんだろうか、いただけない(さらにこの人、田母神さんとの対談本を出しているのが胡散臭いのだが)。
さて僕のいるこの選挙区で、気に入った候補者なんて元々いないし、これからも出て来る気配はない。
でも沖縄の知事選挙や映画「標的の村」を見てから、今度は自公及び同調するそれらの党の当選者数を減らす為に、ただただその目的のために、誰でも構わない、確実に当選する人を選ぼうと思うようになった。死に票にしない、1人でも自公等の当選数を減らせられれば、少しは展望が開けるのではとーーーまたしても幻想をいだいてしまった。

野党統一候補や投票率20パーセントなら力になるーーーという主張があるが、いずれも夢のまた夢、現段階ではありえない。論理としては成り立つ素晴らしいものなのだけれど。

現政権への打撃を現実的に具体化したい。確かに僕も随分と変わったな、と自分でも思う。まあ、それほど現政権は危険な存在だと言う事なんです。

経済が争点などというのは、ある意味どうでもいい事だが、3年先には消費税を10%にすることを景気判断抜きにやる事を明言している事を忘れちゃいけない。もちろん現政権が続いているか、どうかは不明なんだけど。

さてこの政権のもっともヤバイことは集団的自衛権行使容認を閣議決定してしまった解釈改憲や秘密保護法、TPP、原発再稼働と輸出、従軍慰安婦問題をめぐる歴史認識など極めて危い政策を進行させていること。
そしてこれらを敢えて選挙の争点からはずす為に、景気を浮揚させられず既に破綻しているアベノミクスとかいう経済政策を性懲りもなく前面に持ち出して、争点が恰も一つしかない様に振る舞う。

と言う訳で、僕は自公の数を具体的に減らす方法を考えたい、そう思うのだ。





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「再稼働を容認できない技術的根拠」---20141026日 小倉志郎講演会を聞いて         

その公演は尺八のひと吹きからはじまった。最近、習い始めたというが、その音色は小倉さんの話しっぷりも含めて会場の空気を和ませるには十分だった。実際、尺八はそう簡単に音を出せるものでもないから、かなりの練習の結果の賜物に違いない。芸事は人前で演じることで上手くなって行くと言われる。

続いて紙芝居が始まった。

本人自作の内部被曝をテーマにした12枚もの。「ちいさなせかいのおはなし」

小倉さんは3.111週間前、千葉県の母親たちの読み聞かせサークルで初上演。この紙芝居を作った経緯について自身の本、『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』(彩流社 2014年刊1700円)の中で、2010年末に文科省が出した各教育委員会宛ての通達を知って、急遽作ったものだという。それは「翌年4月から原発がクリーンで安全であること、エネルギー資源の少ない日本では必要という事を教えるように」と言う内容だった。その後これを持ってあちこちで上演しているとのこと。

この紙芝居は内部被曝がDNAに致命的損傷をもたらす、と言う内容。低線量でも脅威なのは外部被曝よりも何より内部被曝。その危険を知ったのは東芝を定年退職して、7年後の2009年に読んだ2冊の本だったという。それまでの自分が、放射能の人間への影響についていかに無知であったかを思い知らされたと。

この2冊の本---

GouldGoldman著「死に至る虚構---国家による低線量放射線の隠蔽」肥田舜太郎他訳

2 Boardman著「放射線の衝撃---低線量放射線の人間への影響」肥田訳

(いずれもPKO法「雑則」を広める会刊行)

さて小倉さんは芸事用の衣装を着替えて、講演を始めた。

まず「再稼働賛成の人と反対の人」にそれぞれ挙手を求めた。僕の視界には2人の賛成の手が見えた。この後、両者の激しい意見のぶつかり合いがあるのかと思わせたが---展開は違った。

「反対の方、明確な理由がありますか、その根拠は?」と、小倉さんは問いかける。

ゼロベクレルが最良であることは当然ながら誰しもが認める。問題は低線量被爆。それも内部被爆。ある値以上は影響があり、ある値以下は問題はないという言説。果たしてそうなのか。その数値に科学的、技術的根拠を求めはじめるとその数値に惑わされる。専門家の言う事や科学者の言う事、有識者と言われる人達を安易に、その肩書きで信じることになる。それらは「確率論的安全解析」や「リスク評価」(前掲書参照)と言った視点で考えられているに過ぎず、生身の人間のことは置き去りにされている。

科学主義や技術主義から脱却して、それよりも自分の尺度=感覚で判断したい。嫌なものは嫌、命を危険にさらすのはご免だ、で構わないではないか。数値はあくまでも参考データに過ぎず、そのデータを判断するのは個々人の感覚であるべきだ、とする。被曝線量は低ければ大丈夫なのか、と言う問題提起。

小倉さんは原子力市民委員会が出した『原発ゼロ社会への道』の第4章の執筆者の一人。この第4章のタイトル、今回の講演と同じものだが、「原発再稼働を容認できない技術的根拠」について、実は納得していないと言われる。小倉さんの話は確かに技術的根拠をもとめるのは間違いだ、と言う事なのだから当然と言えば当然だ。

質疑応答で出た、冷却水ボンプ自体に問題ありとか、パイプの継手に欠陥があるとかというのは技術的根拠にはなり得ない。それらは交換すれば解決できる事柄であって、原発に固有の問題ではない。

それでも僕が思う再稼働を容認出来ない技術的根拠とは以下の二つのこと。

①通常運転時においても、

原発は大気中と海とに低線量の放射性物質を出している、否出さないと運転出来ないと言う構造を持った技術である事。

②なかんずく非常時においては、

3.11を振り返るまでもなく、あらゆる技術同様、原発は自然の力を乗り越えることができない技術である事。

大気中や海中に放出された、たとえそれが低線量であったとしても、それら放射線が今後、将来に向かってどういう影響を生物や人、地球にもたらすのか。科学によって、その影響を解明できたり、防備出来たりと考えるのは自然の力をコントロール出来ると考える人達の身勝手な、傲慢な振る舞い。科学の発達や進歩に託す愚、科学主義を捨てない限り、その危険を察知する人としての能力、本能的感覚は失われると。

科学主義や専門家主義、そしてもろもろの数値に頼る数値主義、そしてそれらの数値を安全だと担保する法規主義とオサラバした先に原発ゼロ社会が見えてくるのではないか---僕は思った。

原発施設内の放射線管理区域から外へ出る時には、頭からつま先まで着ているもの、履いているものなど全てを取り替えると言う厳格な措置がなされている(それらは洗濯されて、それこそ低線量と言われているが、その洗濯排水は実は海に放出されている)。

今、福島県を始め、茨城県や千葉県などにも、この管理区域に指定しなければいけないところが数多くある。にもかかわらず、出入りは自由。もちろん衣服は取り替えないし、車も乗り換えない、新幹線も乗り換えはしない---という事は日本中に汚染が拡大している、という事。

小倉さんは日本という国の全滅の日がやがてやって来るのではと警告する。全滅とは「生物としての自然の営みが不可能になる」こと。タイタニック号を例にして、およそ後24年で日本は全滅するのではないかと警告する(前掲書参照)。

小倉さんは大学卒業以来、2002年に定年退職するまで一貫して、東芝の原発技術者として幾つかの原発現場で働いてきた。中でも福島原発は1 号機から6号機まで、4号機を除いて、炉心冷却系の電動機駆動ポンプのエンジニアリングを全て担当。その福1の冷却系装置の電源喪失による原発震災を知った時の衝撃と驚愕は如何許りであったか察するに余りある。

懇親会

1730分から、小倉さんを囲む懇親会が近くで持たれた。僕がどうしても聞きたかったことは東芝での事。

原発部門は花形だった。何故なら、確実に売り上げが読める。他の商品は売りに出して始めて売り上げ額が出てくる。それらに比べて原発は受注だ。5年先まで数値が読めた。

東芝における総売上に占める原発部門のその比率は知らない。

原発部門は技術系のみ約1000人、他に事務系も。東芝全体の社員数は約36000

紙芝居はペンネームだが、今回出版した本は実名。当初は東芝からの嫌がらせを予測した。また、本を出す時にも逡巡したが、意を決めた。現在のところ、古巣からのリアクションはない。

またこの懇親会で小倉さんの放射線管理手帳を見せてもらった。かなりの数の印が押されていた。東芝の肩を持つ訳ではないがと前置きして(東芝を良く語る時、この前置きをどうしても必要とするのは仕方がないのだろう)勤めていた当時、東芝では放射線被爆について厳格な管理がなされていて、自分の総被曝線量はかなり低いという。

前掲書によれば、原発内の管理区域に入るにはまずそこの線量を計測する必要がある。その作業をする放射線管理員は真っ先にその危険が予想される現場に入って計測する。このデータがあって始めて点検工事の必要作業員数や必要日数が決められていく。

誰か一人でも1日に100Rem(現在の1mSv相当)を超えると労基署に始末書を書かされるということから管理員は誰一人として限度を超えないように被曝線量を社員、下請けを問わず、平等に計画して管理していた。その結果、小倉さんは今も健康に暮らせている、彼らに感謝しすぎる事はないのだと。

そして小倉さんの本『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』にサインをしてもらった。

「信自他真心 日々不忘」

とあった。そして小倉さんはバックから小さな本を取りだした。そこには童話屋の「日本国憲法」があった。「日々不忘」が大事なんですと。

小倉さんには山田太郎というペンネームで書いた「原発を並べて自衛戦争はできない---原発と憲法」という論考(2007年ミニコミ誌「リプレザーブ」寄稿 前掲書併載)がある事を付けくわえておく。

-----以下、参考までに東芝のhpから「会社概要」(2014-03-31時点でのデータ)を引用-----

創業
    1875(明治8)7
資本金
    4,399億円
年間売上高
連結 65,025億円
        単独 32,945億円
資産総額
連結 62,416億円
        単独 4643億円
従業員数
連結 200,260
        単独 35,943
発行済株式総数
423,760万株
株主数
    436,540

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# by kyureki | 2014-11-21 17:57 | 反原発

「体験から言えば公共事業は止めることはできない。全国的に見ても公共事業を中止に追い込んだ運動は未だかつてない。反対運動はせいぜい、その事業を遅らせる事くらい」ーーー道路住民運動全国連絡会事務局橋本良仁さんは2014年9月20日の会合でこう切り出した。

今、中部横断道反対運動をしている僕らの面前でのこの挑発的な、そして刺激的な発言! そこには甘さは一切無い。クールと言えばクール。いささかの幻想もない何ともやるせない気分、「これからが正念場だ」と思う僕にとっては鉾先を挫かれてしまったかのよう。一方で、ふとした安心感が出て来たのも紛れも無い事実。小さな、でも現実的な展望が、果たしてこれが展望なのかしらという疑問と共にそこにある様に見えた。

橋本さんの言葉を真っ当に理解するには僕にはまだまだ時間が足りないのだろう

も一つの言葉、

「遅らせている間に政権交代があれば、変化があるかもしれない」

を聞いて、少し楽になったのだがこれは幻想ではないのか。クールな橋本さんでさえ、そう思うしかない、という事。でも甘い! 政権交代に期するなんて。


「遅らせる」だけがスローガンでは最初から敗北宣言をしたも同然。僕には闘いの幻想ーーー横断道工事を止めるーーーが、それが紛れもなく、間違いなく、確実に、橋本さんが言う通り幻想に終わったとしても何故かどういう訳か手放したくない、必要な要素、エネルギーなのだ。

しかし遅らせる事だて、運動の結果である事は事実。運動がなければ、遅れるなんて確かにあり得ない。成果と言えばそうかもしれない。でも矢張りこれでは寂しい。始めから遅らせる事だけを射程に据えた運動なんて聞いた事はない。どんな運動もそこからは出発しない。

今、橋本さんが、挑発的発言をするのは中部横断道反対運動の現在の状況を踏まえているからだろう、と見た方が正確かもしれないし理解はし易い。

どうしても気がかりな事がある。明野の処分場の事だ。あれも紛れもない公共事業。20年かけて、今やっと閉鎖に追い込んだ。だから、公共事業がいつも止められない、ということではない。橋本さんの認識とはズレがある。国ではなく、県の事業だからか。道路ではないからか。

僕は中部横断道の反対運動に参加した時、そのお手本は身近な明野にあると思っていた。20年を覚悟するのか、お前には持続する志があるのか。

ただ20年は結果であって、始めから期限があったわけじゃない。運動の積み上げの結果だ。やって見なけりゃ分かりはしない。

時々思う。どうして僕はいつも流れに抗うのかと。その流れに乗ってしまえばこんなに気楽な事はないのに。せめて一度で良いからお気楽になってみたい。一回その流れに乗って呑気に暮らしてみたいーーー。

そういう時代を迎えるには結局今の流れに抗った先にしか見えて来ない、というこのパラドックス。抗って、これからも生きていくか。幻想が幻想に終わるのだとしても。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この原稿は「中部横断自動車道八ヶ岳南麓新ルート沿線住民の会」のニュース14号(2014年10月10日発行)に書いたもの


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事故を待ち望む、東電と政府

原子力市民委員会編の『原発ゼロ社会への道』をテキストに界隈の人達と勉強会を始めた。

2章の「事故炉の実態と後始末」を読んで、汚染水の処理問題を始め、東電や政府のやっていることは、その場限りのやつつけ仕事、何の展望もなく、だだただやり過ごして行くだけなんだとの思いを強く持った。彼らの本心はどこにあるのだろう、と思わないわけにはいかなかった。

こうした思いは本章だけではなく、全編を通して市民委員会から現状の政府、東電の政策に対し対案が提示されているが、本書が指摘している通り、彼らのいい加減さにはほとほと呆れ、時に絶望感に見舞われる。

つまるところ彼等の目論見とはもう一回、もう二回と事故を起こして、免罪されようとしていることではないのか。

次の事故は世界を終わりにするし、少なくとも日本を終わりにするだろう。彼らは密かにその事を狙っている。そして終わりになれば彼らはいなくなり、自動的に免罪される。かくて彼らの野望が達成されるーーー何と言うことか。

こう考えると彼らのいい加減な対応をスムーズに理解できるのだから正直、嫌になる。当初は彼らに能力がないとか、ノウハウが無いとか、考えたこともあつたのだけれど、それでいて他人の提案を鼻から受け付けない、という態度をみていると、どうやら彼らの真意は他にある、と思わざるを得なくなった。

しかし彼らを野放しにし、彼らの思惑が現実になってしまったら同時に僕らも、引きずりこまれることは必至だ。

原発事故は原発賛成派だけを直撃するのであればまだしも、反原発派も含め、あらゆる人達を道ずれにする。命を慈しむ僕らは彼らのやり方のデタラメさを指摘し続けるしかない。命の犠牲を強いる彼らには任せてはいられない。

この徒労に終わるかもしれないとも思える長い長い道のさらにそのトンネルの先に原発ゼロ社会が見えてくるーーーはずだ。気を取り直し小さくても良い、ささやかな希望を何とかして見出して歩んで行くしかないのだろう。

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# by kyureki | 2014-09-09 22:55
ボリビア:母なる大地の権利法

南米にこういう国があった! 世界を諦めるにはまだ早い。

これはあるmlの投稿から知ったもの。

「母なる大地の権利法が2011年12月7日にボリビア議会で承認され、その後12月21日に公布されました。

母なる大地の権利を認めるとともに、その権利を尊重するために、ボリビア多民族国としての決意を示すとともに、それぞれも母なる大地を守るために取り組んでいこうという思いを法律にしたものだと思います」
出典は「開発と権利のための行動センター 」のhp

条文は以下。

http://cade.cocolog-nifty.com/ao/2010/12/post-ad79.html 日本語訳

http://www.gacetaoficialdebolivia.gob.bo/normas/verGratis/138877

第一章 目的と原則

第一条 目的

 この法律は母なる大地の権利について認めるとともに、この権利の尊重を保障するための多民族国及び社会の義務と責任を定めることを目的としている。

第二条 原則

 この法律が定める義務的な履行原則は次のものである

1. 調和: 多元性と多様性のなかで、人間活動は、母なる大地に固有のサイクルとプロセスとの動的な均衡を得るものでなければならない。

2. 集団的利益:母なる大地の権利の枠組みにおいて、社会的な利益は、すべての人間活動またその他の獲得された権利に優越するものである。

3. 母なる大地の再生の権利:生命システムがその再生能力に限界を有し、また人間もその活動を元に戻す能力には限界があることを認め、共通の利益との調和の上で、国家はその様々なレベルにおいて、また社会は、母なる大地の様々な生命システムが、その構造や機能に明らかな変化を引き起こすことなく、損害を吸収し、攪乱に適応し、再生するために必要な条件を保障しなければならない。

4. 母なる大地の尊重と擁護

現在そして未来の世代の「善き生」のために。国家また個人及び集団は母なる大地の権利を尊重し、保護し、保障する。

5. 非商品化:生命システム、またそれを支えるプロセスを商品化することはできず、またいかなる者の私的資産の一部をなすこともできない。

5. 通文化性:母なる大地の権利の行使には、自然との調和に基づく共存を求める世界中の文化の多様な考え方、価値観、知恵、知識、実践、能力、卓越性、変革、科学、技術、規範についての対話、承認、回復、尊重、擁護が必要である。

第二章 母なる大地:定義と性格

第三条 母なる大地

母なる大地は、運命を共有し、相互に関係し、依存し、補完しあう、すべての生命システムと生き物が不可分な共同体として形成されている動的な生命システムである。

母なる大地は先住民族の世界観から、神聖なものと考えられている。

第四条 生命システム

生命システムとは植物、動物、微生物やそのほかのものまたその環境によって構成される複雑で動的な共同体であり、そこでは機能的な統一体として、人類共同体と自然が相互作用を行っている。そのシステムは気候、自然地理、地質的な要因や、様々な生産活動、ボリビア人の文化的多様性また先住民族や通文化的なあるいはアフロ系ボリビア人のコミュニティの世界観の影響のもとにある。

第五条 母なる大地の法的性格

その権利の擁護の効力のため、またその権利後見者として、母なる大地は公益のための集団的主体という性格をとるものである。母なる大地および人類共同体を含み、それを構成するすべてのものは、この法に認められたすべての固有の権利の権利主体である。母なる大地の権利の適用は、それを構成する多様なものの、特殊性、独自性を考慮するものである。この法に定められている権利は、母なる大地のその他の権利を制限するものではない。

第六条 母なる大地の権利の行使

すべてのボリビア人は、母なる大地を構成するものの一部として、それぞれが有する個別あるいは集団的な権利と両立しうる形で、この法律に定められた権利を行使することができる。

個人の権利の行使は、母なる大地の生命システムの集団的権利の行使のために制限される。諸権利間の衝突は、生命システムの機能に修復できないような影響を与えないように解決されなくてはならない。

第三章 母なる大地の権利

第七条 母なる大地の権利

I.母なる大地は次の権利を有する

1. 生命への権利:生命システムの統合性、それらを支える自然システム及びその再生のための能力と条件を維持する権利

2. 生命の多様性への権利:将来の存在、機能、可能性を脅かすこととなるような形で、その構造の人為的改変、遺伝的改変を受けることなく、母なる大地を構成する多種多様な生命を保全する権利

3. 水への権利:生命システムの維持に必要な、水の循環機能の維持及び、質的量的な水の存在を保全する権利。また母なる大地とそれを構成するすべての生命の再生産のために、汚染から保護される権利

4. 清浄な大気への権利:生命システムの維持に必要な大気の質と組成を保全する権利。また母なる大地とそれを構成するすべてのものの再生産のために、汚染から保護される権利

5. 均衡への権利:循環を維持し、また生命プロセスを再生産するために、均衡ある形で、母なる大地を構成するものの相互関係、相互依存、補完関係及び機能性を維持し、回復する権利

6. 回復する権利:人間活動によって直接また間接的に影響を受けた生命システムが適切な時点で有効に回復する権利

7. 汚染から自由に生きる権利:母なる大地を構成するものが汚染から保護される権利、また人間活動から生み出される毒性廃棄物や放射性物質から保護される権利。

第四章 国家の責任と社会の務め

第八条 多民族国の義務

1. 母なる大地の一部である文化システムを含め、人間活動が、存在するものの絶滅を引き起こしたり、その循環やプロセスを改変、あるいは生命システムの破壊することを避けるために、保全のため、早期警戒のため、保護のためまた予防のために、総合的な政策と行動を展開すること

2. 母なる大地の生命としての循環やプロセス、均衡の統合性と再生産能力を守りつつ、「善き生き方」のためのボリビア国民の必要性を充足するために、均衡の取れた生産と消費のあり方を開発しすること

3. 母なる大地を構成するものへの過剰搾取、生命システムやそれを持続させるプロセスの商品化、地球的気候変動の構造的原因及びその影響から母なる大地を擁護するために、多民族国家内また国際的に政策を展開すること

4. 長期的なエネルギー主権を確立するために、消費節約、効率化、漸進的な代替なクリーンで更新可能なエネルギー源を導入していくための政策を展開すること

5. 国際社会に対して、環境債務の存在を認めることを求め、また母なる大地の権利と共存しうるクリーンかつ有効な環境技術の提供や資金供与を求めること

6. 平和と、すべての核兵器、化学兵器、生物兵器他の大量破壊兵器の廃絶を促進すること

7. 2カ国間、域内諸国間、また多国籍間において、母なる大地の権利の承認と擁護を進めること

第九条 人の務め

自然人、法人、公人あるいは民間人の義務は次の通りである。

a) 母なる大地の権利を擁護し、また尊重すること

b)すべての人類共同体あるいは生命システムの自然との間で、母なる大地との調和を促進すること

c)母なる大地の権利の擁護あるいは尊重に向けた提案を生み出すために、個人としてあるいは集団として活発に参加すること

d)母なる大地の権利と調和的な生産活動や消費習慣を取り入れること

e)母なる大地の構成物の持続的な利用を確実に行うこと

f)母なる大地の権利やその生命システム、あるいはその構成物を損なう行為を告発すること

g)母なる大地の保護や保全を目的とした取り組みの実施のための、関係当局や市民社会から呼びかけに参加すること

第10条 母なる大地の擁護官

 この法律に定められた母なる大地の権利の、有効性、促進、普及、履行を見守るために「母なる大地の擁護官」を設置する。その構造、機能、職務は別途法律にて定める。








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やっとIWJの会員になった。デモクラTVよりも深い思索があった。

きっかけは板垣雄三さんのパレスチナを巡るインタビューを聴くためだった。それは2日間何と8時間にわたるものだった。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/159297

そしてIWJの幾つかのアーカイブを聞いた。特に中東の。どれだけ欧米の報道が自分らの都合にあわせてなされているのか、日本の報道がただそれに追随している事、をつくづく思い知らされた。日本が欧米社会の中で先進国と言う位置を維持しているかのような、それは一つの振る舞いに違いない。この一方的な思い。

国際社会だ、国際社会だと言う時、アジアや中東は完璧に欠落している。欧米だけが世界を牛耳っている、と思い込んでいるそれは証。そこに付き従って行こうと言う日本。これでは本質は見えてこない。そしてその欧米の価値観が長年僕に刷り込まれて来た。

IWJのインタビューの中でカナダ・モントリオール大学教授で歴史を教えているラブキンさんはアメリカは何をしてもその責任が問われないという事について「免責性」という言葉を使って語っている。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/156099

IWJの会員になったきっかけはガザ攻撃の激しさだつた。何故なんだ。パレスチナをきっちりと理解しない限り、事の本質は見えないのではと。中東を理解してこそ、世界が分かるのではと言う思いだった。

原発もそうだったけれど、チェルノブイリの時は関心が薄かった。他人事だつた。福島原発震災を体験して初めて反原発を強く意識するようになった。知り合いがチェルノブイリの子供の保養を引き受けていたことは知っていた。それでもそこまでだった。何も始まらなかった。始めなかった。

他人の不幸が気づきをもたらした---僕の場合。事態が大きくなって初めて気づきが訪れる。想像力不足と言うのだろう。ジヨンレノンは歌つていた「想像してごらん」と。


Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one


想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ


http://ai-zen.net/kanrinin/kanrinin5.htm



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d0229170_18085961.jpg⚫️この世界は誰のもの⚫️

野に咲く花は誰のもの
野に咲く花は誰のもの
君は忘れていた
野に咲く花は誰のもの

流れる川は誰のもの
流れる川は誰のもの
君は思い出す
流れる川は誰のもの

輝く太陽(ひかり)は誰のもの
輝く太陽(ひかり)は誰のもの
君は知っている
輝く太陽(ひかり)は誰のもの

生きとし生けるもの達よ
生きとし生けるもの達よ
この世界は誰のもの
生きとし生けるもの達よ



これはこの界隈で一番早く始まった地域通貨「八ヶ岳大福帳」のイメージソング 2。今を去る20数年まえ、いやもつと前か。机上を整理していたら奥の方から出てきたのだつた。




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この界隈は日照時間が日本一だと言う事もあってか、近頃あちこちにメガソーラーなるものが出来、めったやたらとそのパネルが目立つようになって来た。小さな物もあれば、巨大なものも。地元の山持ちや外資を含めた大手の企業まで。中には一万坪という山林に植林された50年とも80年生とも言われる、充分に建築材料として使える大きな赤松の木を皆伐して、ソーラーパネルを並べると言う話が最近あちこちにある。以前から国産材が輸入材にとって変わられたことによる林業の経営不振=破綻。また薪や炭として広葉樹を利用してきた里山は薪炭から石油エネルギーの利用への転換に伴い荒れるに任されている。こうした山林や里山の地主たちにとって、それらを管理することは人口減少/若者の流出/高齢化もあって不可能に近い。

●高利回りを保証する、固定価格買い取り制­/FIT ( Feed-in Tariff) /再生エネルギー賦課金

これはエネルギーの買い取り価格(タリフ)を法律で定める方式の助成制度の事。20127月から導入。当初は42円を20年間保証するというものだった(その価格の推移は下記参照)。

この仕組みは前身の余剰電力買い取り制/太陽光発電促進付加金は主に個人(10kw未満)が対照で、日中にソーラーで発電した電力を自宅で使った後、残りの余った電力を買い取るものだったが、これとは別に事業者向け(10kw以上)の売電のみの制度を加えた事。20年間にわたって、買い取り価格が保証される。言わば変動金利ではなく、固定金利として長期間、高利回りが保証されるわけだから新しい投資を生みだすのは必然、各地のメガソーラーを誘発した(なお再生可能エネルギーは太陽光だけではなく、風力や地熱等を含む)。

東電が毎月各戸を検査してポストに届く「電気使用量のお知らせ」があるが、20128月分には資源エネルギー庁のチラシが折り込まれていた(以下のエネルギー庁のHPでもみることが可能)。http://www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/saiene/data/kaitori/2012flyer/tokyo.pdf

そのチラシは「再生可能エネルギーを皆で育てる『育エネ』」だとし、その目的は

1 資源の少ない日本のエネルギー自給率を高めます。

2 CO2の排出が少なく、温暖化対策にも役立ちます。

3 日本の未来を支える産業を育てることができます。

とあり、そこには脱原発の言葉さえない。「原発震災」以後、2030年代の脱原発を打ち出した民主党政権下に打ち出されたにも関わらずである。当然ながら原発再稼働を目論み、原発輸出に励む安倍政権になってもこの固定価格買い取り制­/FITは継続。この事からも再生可能エネルギーと脱原発とは無関係なことが明らかだ。

●その前身は、余剰電力買い取り制/太陽光促進付加金分

それより以前から政府はソーラー発電の普及に取り組んで来た。200911月の太陽光促進付加金---閣議決定、2010年可決---がそれである。この時、折り込まれていた資源エネルギー庁のチラシは、固定価格買い取り制の時と全く同じ趣旨。脱原発などは「原発震災」以前だから、当然どこにもその言葉はない。CO2対策に名を借りた経済政策そのものだった。これは以下のようなシステム。

太陽光発電をしている家庭や事務所で日中使い切れずに余った電気を電力会社が当初48円で10年間買い取るというもの。4月から費用は電気料金に上乗せされ、電気利用者全員で負担。地域の太陽光発電の普及に応じて電力会社ごとに金額が決られた。東電の場合、使用電力量1kwにつき当初は0.03円。太陽光発電による売電が増えると、消費者負担額も上がるという仕組み。

他人が勝手に設置したソーラー発電の電力代金を強制的に国民が負担させられるという、このシステム---2012年の固定価格買い取り制­/FITとその前身2009年の太陽光促進付加金---に疑問を持った人は多い。山田征さんは太陽光促進付加金分を拒否し、その額2円を払わないことにしたが、その付加金は電気料金の一部だから、電気料金未払いだとされ、2011103日、電気を止められ電気なしの暮らしをしている。https://www.youtube.com/watch?v=Ux4PfxUtS4w(「脱原発と自然エネルギーの落とし穴」山田征さん講演/山梨県・小淵沢 2012104日)

我が家の東電の古い伝票を見ると、20104月からは「太陽光促進付加金」とあり、実際に課金されたのは134月から、20128月からは「再エネ発電等賦課金」と表示されている。この「等」という表記は「太陽光促進付加金」の事。つまり「再エネ発電等賦課金」は余剰電力買い取り価格と固定価格買い取り価格の2つを足したもの。前者は1kwあたり0.03円からあまり変わらないが(直近の20147月分は0.05円)、後者は0.22円で始まったが、現在すでに0.75円。1年で大幅にアップされている。実際に支払った額を見て見ると、前者の時代/余剰電力買い取り制の時は10円以下だったが、後者/固定価格全量買い取り制が加わってからは優に100円を超えている。直近の20147月分は164円。これは明らかに、売電だけが目的の固定価格買い取り制のソーラー発電を軸とした再生可能エネルギー発電が増えている証である。

2014629日付の毎日新聞の社説は「ドイツでは平均家庭の(再エネ発電賦課金)負担が2400円に達し」て問題になっていると報じているが、ドイツは脱原発を宣言しているからまだしもである。

家庭の屋根にソーラーパネルが乗り始めたのは、前者の時代からで、電力会社はこれを現在もそうだが売買電システムとして販促した。昼の電力の自給というイメージと昼余った電力は買い取る、その差額で電気代が安くなるというメリットが強調された。でも夜も自家消費するという完全な自給にはならず、夜は必ず買わせる、当然ながら電力会社との縁を切らせなかった。それは昼夜問わず出力調整が効かない原発の電力を買わせて行く必要があったからではないか。政府も自治体も補助金を出すという事で、この売買電システムを盛んに売りこんだ。バッテリーに蓄えて、夜も自家消費するという完璧な電力の自給システムは退けられた。バッテリーがいまだ開発途上にあり、高額だなどと言って。

<買い取り価格の推移>

2010年度  48(税込)

2011年度  42(税込)

2012年度  10KW未満 42(税込)  10KW以上 42円(40+5%

2013年度  10KW未満 38(税込)  10KW以上 37.8円(36+5%) 

2014年度  10KW未満 37(税込)  10KW以上 34.56円(32+8%) 

10KW未満の住宅用は余剰買取で10年間固定。10KW以上は全量買い取りで20年間固定。

2010年からは余剰電力買い取り制 2012年からは固定価格買い取り制­/FIT

●メガソーラー開発を強力に推進する「農山漁村再生可能エネルギー法」

広大な山林の木がある日伐採され、残念だと嘆く暇もなく、ギラギラと光る異様な景観が突然出現する。この動きを後押ししているのが、他でもなく201451日に施行された「農山漁村再生可能エネルギー法」--20131115日成立、1122日公布--

http://www.maff.go.jp/j/shokusan/renewable/energy/houritu.html(農水省/農山漁村再生可能エネルギー法)

しかし安倍政権下での政策を考えれば、これも脱原発=原発ゼロ社会を目指して制定されたものではない事は前述のように明らかだ。それとはまったく無関係、新たな補助金政策に過ぎない。今まで農山漁村には手を変え品を変え、どれだけの補助金が投入された事だろう。それでも一向に農山漁村は活性化して来なかった。農水省は「この法律は、農山漁村における再生可能エネルギー発電設備の整備について、農林漁業上の土地利用等との調整を適正に行うとともに、地域の農林漁業の健全な発展に資する取組を併せて行うこととすることにより、農林漁業の健全な発展と調和のとれた再生可能エネルギー発電を促進し、農山漁村の活性化を図るものです」と例のごとく、ご託宣を並べている。

まずもって農林漁業の活性化と再生可能エネルギー発電とがリンクしているというのが不可解である。農林漁業を活性化するのは農林漁業自体を活性化することによってしか不可能なのであって、再生可能エネルギー発電設備の整備をすれば農林漁業が活性化すると考えるのは甚だしい勘違い、筋違い、論理矛盾だ。農林漁業そのものが活性化する訳ではない。そもそも活性化、活性化と言われているが、その言葉が指す実態とは何なのだろうか。これは農林漁業関係者の収入が一時的にいくらか増えると言うことを指すのだろうか。

農林漁業の地域は疑いもなく、過疎化が進行していて、この界隈に限って言っても、耕作放棄地が生まれ、手入れのされていない荒れた山林が広がっている。こうした事態を招いた原因を除去するのではなく、これを手っ取り早く「解決する」方法がソーラー発電だとしてしまう。

各市町村はこの法律の下に新しく部署を設け、ここでは農地法などの規制緩和が促進され、権利移転など面倒な手続きも自治体が事業者に代わってできるようになっている。

例えば山梨県北杜市は2014428日に北杜市新エネルギー推進機構を設立。中でも太陽光発電については「特に、全国トップクラスの日照時間をはじめとする恵まれた地域資源を生かした太陽光発電の導入促進を目的として、市有地、民間所有地を対象とした「太陽光発電の候補地」の登録を行い、市ホームページ上で公開し土地所有者と事業者との橋渡しを行います」などとしている。

http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/komoku/shisei/ondanka/1401149545-96.html#14011497221(北杜市新エネルギー推進機構)

●メガソーラーは惨事便乗型資本主義

地主達の置かれた現状を見れば、この新しい固定価格買い取り制に希みを託してしまう事は致しかたがないのかもしれない。しかしこれも人の苦境に付け入る、ナオミクラインが言うところの惨事便乗型資本主義、「ショックドクトリン」に他ならない。景観は失われ、山の保水力は無くなり、同時に水資源の保全が不可能となり、大雨による洪水の危険性、土砂流出=崩壊など、メガソーラーは負の部分だらけだ。

つい最近、近くの温泉の湯船の中で、「3町歩買ったよ、安かったな」と言う話を聞いた。ここにソーラーパネルを設置するという。田畑を買えるのは、3反歩以上耕作しているという条件に限定されているから、おそらく風貌からしても百姓だろう。機を見るに敏な、小金を持った百姓が、大手の企業顔負けの動きを始めている。かくて国民負担はますます大きくなって行く。

●ソーラーに夢見た僕ら

反原発派は皆、当時、2011311日の福島「原発震災」以来、ソーラーを始めとして、再生可能エネルギーこそが、原発と化石燃料とにオサラバできる道だと思い込んだ。この道の先に脱原発の世界をまさに夢見た。

「石油があと何年で無くなる、ということはまったく根拠のない数字だった」(『熊取6人衆の脱原発』七つ森書館発行 131p)と小出裕章さんは世界のデータを分析し、後何年持つかと言うその数字が1950年から今日まで20年→30年→50年と次次と増えていると記す。「2040年ころまで---石油があと50年でなくなると脅かされ続ける」とも書く。もちろん石油が無尽蔵だとはいっていない。そうではなく政治的に数字が利用されているのだと。これはCO2が出ないので地球を温暖化しないと言う事と同様、化石燃料が枯渇するから原発は必要だという宣伝材料として挙げられているのだが、こうした化石燃料枯渇という強迫観念が僕らを再エネへと急がせた事は否めないだろう(CO2温暖化論には疑義が多いのだが)。

脱原発の世界を夢見たその時、僕(ら)は大事なことに気付かなかった。それは相手の土俵から降りないで、その土俵の上であれこれ考えてしまった、と言う事だ。エネルギーの量はそのままにして原発エネルギーに代わる代替エネルギーを探してしまった。土俵から降りなかった、降りられなかった僕(ら)は再生可能エネルギーを諸手を挙げて歓迎した。

再生エネルギー発電賦課金---政府や電力会社が負担する訳でもない。他人が導入したものに対して、国民が皆で負担すると言うこのシステム、皆で支えようという発想は脱原発になる、反対は出来ないという、その時の僕(ら)の思いが結果として利用され、このシステムを担保してしまった。

同じ土俵の中で原発から再生可能エネルギーに転換できると言う事をいとも簡単に夢見た結果なのではないか。そして今日のメガソーラーの乱立だ。

「土俵から降りる」事を提案しているのは辻信一さん。2011911日に北杜市のオオムラサキセンターで辻さんの話を聞く機会があった(http://hokuto-kanko.jp/calendar/result.php?id=00563)。その時の感想をブログに書いた事を思い出した。

----そこで話されたことは「土俵から降りる」ことの提案だった。原発を必要とする社会=土俵から降りれば良い、経済成長を命題とした社会=土俵から降りれば良いのだと。その土俵に留まっている限り代替案の提示を強要されることは必至なのだと。同じ土俵にいて、解決策を考えることの虚しさを辻さんは指摘していた。まず土俵そのものを疑うことをはじめないと駄目なのだと。---でも、頭での理解に留まった僕。

山田征さんは見事に土俵を降りた、いや降り切ってしまった。電気とオサラバし、ローソク生活をする。生活を縮小削減することで、エネルギー浪費社会/あくなき経済成長社会とオサラバした。僕(ら)が土俵を降りない、降りられないと言う事は今の生活を捨てない、そのまま維持して行くという事に何の疑いを持たず、その思いにがんじがらめにからめに捉えられていたからではないのか。その余りの便利さ故に。計画停電に脅かされ、その土俵に留まる事に疑問すら挟まなくなってしまった---僕の場合。

●ソーラーパネル自体のコストパフォーマンス

  

ソーラーパネル自体の疑問についてはその耐久性やそれに伴う処分時の問題が取り沙汰されているが、僕が一番得心がいったのはソーラーパネルのコストパフォーマンスについて語られた以下の論だ。ソーラーパネル自体の製造に伴うコストとパネルが発電する電気エネルギーとの比較検討である。

近藤邦明さんは「環境問題を考える」というHPの中で、「石油代替エネルギー供給技術の有効性の検討」と題して、以下のように述べている。

「現在の工業生産を支えているエネルギー供給システムは、言うまでもなく、石油を中心とする炭化水素系の化石燃料である(以下これらの総称として石油と呼ぶ)。全ての工業生産は石油の消費によって行われている。石油代替エネルギーと呼ばれる全ての技術は、石油によるエネルギー供給システムなしで自己再生産することが不可能である(対石油エネルギー産出比<1あるいはエネルギー収支<0)。それどころか、発電システムとして石油火力に対して石油節約的ですらない。石油文明下の技術としても、石油利用効率において既存の石油火力発電に劣る事は勿論、その他の鉱物資源を大量に浪費する技術なのである」

「原子力発電と同様に、自然エネルギー発電は発電段階ではCO2を放出しませんが、発電設備の製造、あるいは不安定電力の安定運用のためには莫大な工業製品が必要であり、その製造過程や運用において莫大な化石燃料を消費しています」

「太陽光発電の時空的な不安定性を調整するための巨大なバックアップシステムを除いた、太陽光発電システムそのものだけで比較しても、石油投入量に対するエネルギー産出比が石油火力の1/31/2という低い値である。太陽光発電システムによる電力供給の代替は全くの石油資源浪費に他ならない。また、太陽光発電システムが自立したエネルギー供給システムになることは有り得ないのである」

さらにいくつかのデータを挙げて、「以上検討してきた結果、太陽光発電システムによる石油火力発電の代替は、石油資源と鉱物資源、そして何より、本来ならば生態系を育む環境として最も重要な水土を浪費する『環境破壊システム』であることが確認された」 としている。

そして最後に「---逆に公的補助によって無理な導入を進めれば、石油・鉱物資源の浪費を招来し、環境問題を悪化させることになる。石油代替エネルギー政策によるエネルギー供給システムに対する国家の介入を完全に排除することが、最も効率的なエネルギー供給システムの構築に有益である。これによって経済的に成り立たない高価な電力供給システム=石油・鉱物資源浪費的なシステム(例えば原子力発電)は、必然的に淘汰される。国家は、電力使用量の抑制のための各種施策の導入にこそ力を傾注すべきである」

http://www.env01.net/main_subjects/energy/contents/e001/e001.html(近藤邦明HP「石油代替エネルギー供給技術の有効性の検討」)

●買い取られた電力の行方

 

電気の流れは昔、教科書で習った通り、電圧の高い方から低い方へと流れて行く。という事はソーラー等で発電され買い取られた電気はこの流れに逆らう事になる訳で果たして、どこまで逆らって、いわば逆送電が可能なのか。発電所で作られた電気は変電所で22000Vに調整され、山から山へと伸びた高圧鉄塔を経由して、発電所から延々と町の近くの変電所に送られる。そこで6600Vに下げられて、各家庭の近くの電柱上にセットされている変圧器/トランスに送られる。そこから家庭に100200Vになって配電される。

(詳しくは電事連のHPhttp://www.fepc.or.jp/enterprise/souden/keiro/index.htmlを参照

また実際に家庭に配電される電圧は101±6V(95107V)ということが各電力会社には電気事業法によって義務付けられている。これは安定的供給のためと言う事だが、それだけ電気は不安定だと言う事でもある。さて一般家庭向け(10kw未満)の余剰電力買い取りシステムの場合、売電には最後にパワーコンディショナーと言う機器を通して電力を逆流させるが、このパワコンと称される機器は107Ⅴ以上出力されないよう制限が掛っている。

つまり家庭からの逆流電力は電柱にある変圧器/トランスを超える事は出来ない。トランスはその容量によって、配電可能な軒数が決まっている。例えば300Aのトランスの場合、各家庭が30Aを申請していれば、10軒まで。と言う事は逆流した電力はこの場合、10軒に送電される。ところが、ここで問題が生じる。多くの家、極端に言えば10軒すべてで売電している場合だ。これは供給過剰となり、発電された電力は消費されない。

しかし各家庭に設置された売電メーターがこの時回っていたとしたら、売電が成立し、僕らはそれを負担する事になる。

メガソーラーの場合はどうなのか。ソーラー発電は出力規模に応じて、低圧、高圧、特別高圧に分かれる。メガとは単位当たり100万倍のことだから、1000kw以上を指すので高圧および特別高圧に区分される。

低圧(~50kW):交流600V以下で接続---家庭の引き込み線に接続

高圧(502000kW):交流600V以上7000V未満で接続---6600Vの柱上のトランスに接続

特別高圧(2000kW以上):交流7000V以上で接続---変電所22000Vに接続(この場合、ケーブルは発電事業者の負担。この近くの変電所は韮崎市にあるらしいが、そこまで自前で高圧ケーブルを引く)

メガの場合、再生可能エネルギーに関する特措法の施行規則では500kw以上の発電所に関しては、地域電力のバランスにより、ソーラー発電所に対し、供給制限をすることができるとしている。この「バランス」とはおそらく供給過多の事を指すだろうから、発電した電力が無駄になる。そしてそれでも家庭と同じように売電メーターが回っていたとしたら-----

この項は下記の二つのHPを主に参考にした。

(スマートジャパンhttp://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1303/08/news020_2.html

(SKY LIFEhttp://www.skylife.jpn.com/wp/?page_id=252

●メガソーラーをやめる道は簡単だ

売電システムをやめる。ただただこの事に尽きる。

ソーラーを始めとした再生可能エネルギーの価値は原発ゼロ社会を宣言した時、始めて生まれてくる。その宣言抜きの再生可能エネルギーは新たな経済成長戦略の一環に過ぎない。まさにメガソーラーが投資としての意味しかない事からも、それらは脱原発でも何でもない。彼らの私的利益のために、国民全員でそれを負担する! 資本主義社会の経済ルールに照らしても相入れないこの理不尽さ。たとえば以下のHPは「投資型分譲ソーラー」とか「太陽光投資」と銘打っているだけにマンション投資とそっくり。固定価格買い取り制、ここに極まれりである。

http://www.greent-gr.com/pg116.html

http://www.taiyoukou-toushi.com/middle-solar/?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&ID=dhfaw00000




●ソーラーを活かす道

米や野菜を自給するのと同じように、エネルギーの自給---ここにしかソーラーを活かす道はない。売電や補助金に頼るのではなく、そのコストをすべて自分で背追い込む---自給とはそう言うこと。米や野菜をスーパーで買った方が安いのは当たり前。エネルギーも同様。それでも自給を目指すのはその人の思想/哲学/価値観。敢えて言ってしまえば趣味。誰も立ち入ることは出来ない。この自由こそ何ものにも代えがたい自給の世界!

付け加えてしつこく言えば、今の世界の「土俵から降りる」こと。降りて新しい世界を今、自ら実戦してしまう事。自分が思う世界を生きてしまう事---自給の世界ってこれだよね。


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最近、近くの別荘の人と横断道路について話す機会があった。「完成は10年くらい先でしよ。もうその頃には死んでいるから」 

きっと自分が死ぬまではこの景観は変わらないだろう、ならば声を張り上げる事はない、黙っていよう---自分には預かり知らぬ事だと。

でも、この辺りに別荘を構えるということは、この景観が好きだから、愛しているからではないのだろうか。そして時々、やって来てその景観を堪能して帰る。

当然のことながら、この景観は一朝一夕に出来たものではない。言うまでもなく、古くから、この地で生活を営んできた人達が積み重ね、築き上げてきた生活の結果がたまたま今日の景観を作り出してきたに過ぎない。何もある景観を思い描いてそれを作り出そうとして生活をして来た訳ではない。 

それは僕に言わせれば縄文時代から営々と続いてきた生活があったからこそ、生まれてきた結果である。人々の生活の積み重ねがこの景観を作りだした。

人々の生活の長い歴史を通して育まれ、今この目の前にその景観がある。まるでその景観が偶然そこに存在しているかのように錯覚してしまうのは何故? 先人達に思いを馳せ、感謝することを忘れてしまうのは何故?

他ならぬ自分も今、多くの先人達と同様に日々景観を作りだしている。僕達は意識しようとしまいと生活を続ける限り、死ぬまで景観を日々創り出しているはずなのだ。そしてその景観は次の人達に渡されて行く。昔から皆がして来たように。だから、どういう生活をしていくのかが、つねに試される。直截的に言ってしまえば、中部横断道路をどうするのか、だろう。

自分にとって、景観とは?と言う問い掛けを続けていきたいと思う。


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これほど多くのテーマが盛り込まれた本を未だかって読んだことはない。オウムはそれだけ多くの問題を孕んでいたのか、と今更ながら思う。当時オウムをネグレクトし、また今、もうオウムでもあるまいと思ってしまった自分とは一体、何者なのか。本書を読み終えてつくづく感じるのは以下のような事だ。

それは忖度と同調圧力という二つの言葉の持つ何とも異様な力だ。この二つの言葉は森達也が『A3』の中で、頻繁に使う言葉だったが、日本人の精神構造を現わすものとしては説得力ある鋭い指摘だろう。
 相手を忖度する。忖度しているにも拘らず、さらに厄介なことに周囲からの同調圧力をも察して、今度はもっと過剰に忖度する。ちなみに忖度とは辞書によれば、「他人の心を推し量る事」とある。


 この二つの言葉は日本人の意識をなるほどよく表現しているし、共同体の構造とも全く同じである。性癖なのか、僕達はいつも相手のことをまず先に考えてしまう。だから、自己を表現することはいつも後回し。こうして共同体は平安が保たれると言う訳だ。平安を乱すものは、まさに全て異端者。異端者狩りは日本人の得意領域なのか、権力にとって、これほど都合の良い人間はいない。いくらでも言い成りになってしまう便利な人たち。権力を過剰に忖度し、世間の同調圧力に従う。


ここを脱出する途はどこにあるのだろう。

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●マスメディアは社会の願望を反映する

オウムがらみの報道は当時、圧倒的な物量だったと森達也は書く(本書上巻135頁)。サリン事件が起きた「95320日からほぼ数カ月にわたり、新聞の1面にオウムが載らない日は皆無だった。週刊誌や月刊誌などは1年近くのあいだ、毎号のようにオウム関連がメインの特集記事だった。特集や臨時増刊も数えきれないほどだ」さらにテレビなどを加えれば、凄まじい物量だという。 

---当時のマスメディアがオウムを語る際に使ったレトリックは結局のところ以下の二つに収斂する。

①凶暴凶悪な殺人集団 

②麻原に洗脳されて正常な感情や判断能力を失ったロボットのような不気味な集団

この二つのレトリックに共通していることはオウム信者は普通ではない事を視聴者や読者に対して強く担保してくれるということだ。

それは社会の願望である。なぜならもしも---普通である事を認めるならば、あれほどに凶悪な事件をおこした彼ら「加害者」と自分達「被害者」との境界線が不明瞭になる。---あれほど凶悪な事件をおこした彼らは邪悪で凶暴であるべきだ。社会のこの願望にマスメディアは抗わない。もしもオウム信者は普通であるなどとマスメディアでアナウンスしたならば間違いなく視聴率や部数は激減しただろうし、抗議も殺到していたはずだ。

だからメディアは繰り返し、いかにオウムが異常な存在であるかを強調した。それも戦後の日本において、他に比べるものがないほどに圧倒的な量と時間をついやしながら。---

サリン事件は---その時、その場所にいれば、誰しもが被害者になった可能性があったからこそ、「大規模な被害者意識が、圧倒的なメディアの報道によって、国全体で共有化された」(本書上巻101頁)

繰り返して言えば、ほとんどの日本人はメディアによって、オウムの信者は普通ではないと刷り込まれていたと言う事になる。

こうしたメディアと視聴者/読者の関係性について、森達也は下巻58頁で、以下のようにも書いている。

「人は---多面的だし矛盾している。でもメディアというフィルターは、この多面性と相性が悪い。特にマスメディアの場合、相反する場合にはどちらかを削ぎ落としながら、多くの人が支持する単面ばかりを探して強調する。

つまりメディアとマーケット(視聴者や読者)の相互作用。互いに互いを刺激しながら高揚する。言ってみれば、視聴率や部数という神経伝達物質をやりとりするニユーロン(神経細胞)とレセプター(受容体)の関係だ。削ぎ落とされた端数はやがてゼロ(なかつたもの)になり、残された(わかりやすい)整数ばかりがすべてになる。

これはメディアの必然だ。回避はできない。だからこそこの端数に、常に思いを巡らすような接し方(リテラシー)が必要だ」

●マスメディアは「わかりやすさ」を追求する

マスメディアのオウム報道を総括して、森達也は以下のように述べている。オウム以降の今のマス媒体の特性をこれは見事に言い当てている。いささか長くなるが引用しておく。

----万人に対する「わかりやすさ」(見方によっては視聴者をバカにしているかのような過剰な説明)への志向は、テレビが普遍的に保持する媒体特性のひとつだ。-----

「わかりやすさ」に留意しないと、視聴率は劇的に落ちる(あるいはテレビ関係者は落ちると思いこんでいる)。なぜなら視聴者の大半は、一過性の情報を提供する装置であるテレビに、複雑な事象や多面性の提示など求めていない。だから少しでも退屈だと感じると、あっさりとチャンネルを変えてしまう。---視聴率を広告収入に換算するテレビとしては、視聴率の低落は業績の悪化へと直結する。

こうしてテレビは、単純化・簡略化を継続的に自己目的化するメディアとなった。これもまたポピュリズムだ。

つまりテレビの臆面もないほどの「わかりやすさ」への希求は、テレビと視聴者との相互作用の帰結でもある。---テレビの場合、売れる商品の特性は---わかりやすくて刺戟的であるということだ。

この帰結としてテレビは、複雑な事象を伝える事がとても不得手なメディアとなった。もともとその属性はあったけれど、特に、オウム以降、この傾向は急激に促進された。

なぜならば、国民一人ひとりの危機意識が、オウムによって激しく刺戟されたからだ。今危機が目の前にあると思い込んでいる人にとって重要なことは、多くの視点や選択肢、途中の経過や理由などではなく、最終的な結論だ。右と左のどちらが自分にとって安全かなどと煩悶していたら、迫りつつある危機から逃げ遅れる。理由や経過はともかくとして、結論だけがあればそれでよい。必要なことは自分にとって有害か有益かという二者択一の迅速な判断であり、境界線上の曖昧さや端数は捨象され、煩悶や葛藤などは何の価値も持たなくなる。---

発動したこの危機意識を、テレビは視聴率追求の原理でさらに促進する。なぜならば「敵」の存在を喧伝して危機を煽れば、視聴率は劇的に上昇する。----逆に「敵」の不在や沈静化を訴えれば、視聴率は下がる。もちろん他のメディアも、その原理は共通している。ただ、テレビは現在進行形の媒体であるだけに、その市場原理が露骨に表れる」(本書上巻342頁)

と長々と引用したのだが、オウム以降の今日のマス媒体の特性がここにあると言えるだろう。今のテレビ番組で最も持て囃されている番組と言えばバラエティーとかいうもの。それは「わかりやすさ」の典型とも言える番組。ここには思考するなどというものは一切存在しない。敢えて言えば思考を拒否する時間とでもいったものだろうか。視聴者が求めるから、バラエティー番組が多く作られ、多く放送されるので、視聴者が喜び、視聴率が上がるという相互補完関係。ややこしい複雑な事はもう結構だ、それは両者がともに思考を中断し、それで良しとしているからこそ、その相互補完関係が続いていると言う事だろう。

●付 「政府が右と言ったら、その反対のことは言えない」

これはNHKの籾井新会長の2014年2月25日に行った就任会見での発言である。就任の記者会見での発言については従軍慰安婦問題ばかりが報道されたが、「政府が右と言ったら、その反対のことは言えない」と言う発言はどういう訳か、ほとんどのメディアは沈黙していた。この極めて突出した、あからさまな発言は従来、曖昧だったNHKの本質をズバリ言い切ったという点で「評価」できる。

マスメディアは「権力をチェックする機関」だとか、「社会の木鐸だ」と言った、もはや今となっては死語となってしまった事を実証して見せた「見事な」発言だった。この言わば建前論すら通り越して、権力には従うというまるで真逆の論。これほどスッキリした発言は未だかって聞いた事がなかった。一体いつごろまで、この建前の言葉に力があったのだろうか。恐らくマスを求めたと同時に、それらは放棄され無くなったと想像できる。

公共放送という名の下に視聴料を徴収して、その公共性を担保しているはずのNHKが政府のプロバカンダ機関になるというのだから、これではどこかの国々と全く同じである。一体、公共とな何なのか。

さて、森達也はこの籾井発言について、どう思っているのだろうか、ブログを見た。

http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/links.html

その中に気掛かりなリンクが2つあった。

一つは http://diamond.jp/articles/-/50559

もう一つは http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00069.htm

前者はずばり、「NHKよ、政府が右と言っても左と言える存在であってくれ」というタイトルで記述され、後者は本書の解説を書いた斎藤美奈子との往復書簡だ。

前者の中で「「慰安婦はどこの国にもいた」発言ばかりが強調されて問題視されたけれど、本当に深刻な発言は(領土問題の報道についての文脈の中から出てきた)「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」のほうだと思う。いや思うじゃない。明らかにこっちのほうが問題だ。でもやはり、その指摘は少ない」と書いている。そして「---今のNHKの報道はひどい。まさしく右と言われたら右と言うレベルだ。でも番組制作は頑張っている。急激に強くなった逆風に歯を食いしばりながら作り続けている制作者を、僕はたくさん知っている」

後者の方では、籾井会長が個人的見解を就任会見という公の場で発言したことを謝罪している事について、「NHKという公共放送の舵取りの一人であるからこそ、個人的な思想信条はつねに表明され、多くの人の目や耳に晒され、あらゆる角度から批判されねばならない。そして場合によっては「ふさわしくない」として解任すればいい。こうした立場に就いたら個人的な思想信条を表明すべきではないとするならば、彼らが密室でどのようなことを言ったりやったりしているのかがわからなくなる」と森達也は述べている。

いずれにしても詳しくはそれぞれのリンクに譲りたいと思うが、森達也はここでも真っ当である。


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 本書は堤未果の『貧困大国アメリカ』3部作の最後のもの。2013年6月に発刊された。タイトルに(株)とあるように、あらゆることが株式会社化されて行くアメリカを描く。

本書の目次を挙げて見よう。

第1章 株式会社奴隷農場

第2章 巨大な食品ピラミッド

第3章 GM種子で世界を支配する

第4章 切り売りされる公共サービス

第5章 政治とマスコミも買ってしまえ


TPPは関税率だけが焦点になっているが、それだけではなく、輸入される食品の質こそが問われるべきなのだ。秘密主義の結果、そうしたことは何も表に出て来ない。この本はアメリカの食べ物が、どれほどヤバイのか、大量の農薬と化学肥料を不可欠とするGM作物(その結果として土地の荒廃と人体へのダメージ)、本来草食の牛に肉の死骸を給餌して飼われている牛達(その結果の狂牛病)、極端に狭いゲージに詰め込まれた鶏への予防という名の大量の薬投与(その結果としての鶏インフル。野鳥のせいではない!)などという恐ろしい事実が検証されて行く。

そもそも動物達の飼い方が、動物虐待! 病気にならない方ががおかしい。

 

この本を読んだら、とてもじゃないが、アメリカ産のものはもはや食べものではないことが理解できる。はっきりしていることは農業の工業化、つまり株式会社化に碌な事はないということだ。

本書はこれらの事をオバマ政権と一緒になつて、隠蔽/無視するアメリカのモンサント社を始めとしたアグリビジネスの今を分析し、近未来の日本の姿を描く。

TPPの締結は日本の輸出自動車のアメリカの関税率ゼロと引き換えに、この口にしてはいけない食べ物とは言えない食べ物が大手を振って日本に輸入される! 事を意味する。

 

本書で見逃してはならない指摘はあらゆることが民営化=株式会社化していく事だ。刑務所の民営化、教育の民営化、究極は自治体の民営化=株式会社化である。財政危機に陥ったあらゆるところが民営化されて行く。惨事に便乗して株式会社が参入して行くという手法。別名、惨事便乗型資本主義=ショックドクトリン。タイトルにある株式会社とはまさにこの事を指している。 



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# by kyureki | 2014-04-21 15:35 | TPP

 

 2014年4月6日朝、雪が降った。開き始めた檀香梅の花の上に雪が積もった。陽が高くなるにつれ、雪はすべて溶けてしまった。まさに、なごり雪。会社を辞める日、口ずさんだ、イルカの「なごり雪」と言う歌を思い出す。

 

「東京で見る雪はこれが最後ね」とさみしそうに君がつぶやく----そう、僕は田舎で百姓をすることに決めていたのだった。

 

汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる

季節外れの雪が降ってる 

「東京で見る雪はこれが最後ね」とさみしそうに君がつぶやく

なごり雪も降る時を知りふざけ過ぎた季節のあとで

今 春が来て 君は綺麗になった 去年よりずっと綺麗になった

 

動き始めた汽車の窓に顔をつけて 

君は何か言おうとしている 君の唇が「さようなら」と動く事が

怖くて下を向いてた

時が行けば幼い君も大人になると気付かないまま

今春が来て 君は綺麗になった 去年よりずっと綺麗になった

 

君が去ったホームに残り落ちては溶ける雪を見ていた

今春が来て 君は綺麗になった 去年よりずっと綺麗になった


 (作詞作曲ー伊勢正三)


そして今、確かに田舎暮らしをしているのだが、百姓というにはほど遠いところにいる。米は作っていないし、野菜も自給できている訳でもない。もちろん出荷しているわけでもない。

百姓とは百の事をすると言われるのだが、今までどの位、やってきただろうか。甚だ心もとない。いまだ百姓志願を持ったままだ。


    




 


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# by kyureki | 2014-04-11 10:49 | 百姓


 

王仁塚の桜は山梨県の韮崎市にあるが、今や全国区になったようだ。確かに駐車場には県外ナンバーの車がたくさん停まっていた。緩やかな北斜面の続く田んぼの中に1本だけ、堂々として枝を張っている。樹齢300年を超えたという。今年の大雪で太い枝が折れたというが、その姿形は去年と変わりがないように見える。

この桜の直ぐ脇に東京電力の鉄塔が立っていて何本もの送電線が延びている。あれが邪魔だから移転させろという声があるが、その移転費用は1億円かかるという話がある。一方、あの鉄塔が避雷針になっていて、お陰で、雷が桜を直撃せずに済んでいるんだという話もある。

 

 

2014年4月7日、王仁塚の桜は今年も沢山のカメラマンが望遠レンズを構えてそこにいた。遠くに八ケ岳を入れたこの一本桜の絶好の撮影ポイントは正にカメラの放列。
そばを走る送電線をいかに避けるか、どうやらカメラマン達の狙いはそこにあるらしい。確かに、その狙おうとしている写真はあちこちで見たことがある、例の「美しい観光写真」のイメージに沿って撮ろうと言うことだろう。

僕はと言えば、去年まではこのイメージを追いかけていたのだが、今年は敢えて、この送電線を入れた写真を撮って見た。これが意外に面白い。びっくりした。新しい発見だった。
どうやら僕はいつか見た、定番の、固定されたイメージに囚われていたようだ。あるべき写真の。あるべき王仁塚の桜の。

どちらも現実を切り取って撮ったことには変わりはないのだけれども、現実をどう見るのか、見たのか、と言う見方の違いだ。写真はやっぱりそのひとの思想、価値観を見事に写し出す事をこの王仁塚の桜が教えてくれた。


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# by kyureki | 2014-04-10 23:52


 

 

●排外主義の台頭

 

北朝鮮は元より、近頃、反中や反韓の言説がとみに耳につくようになった。尖閣諸島や竹島等の領土をめぐる話やまた領土に対する教科書の書き換え、中国が一方的に描いたとされる防空識別圏に対する反論、また在日韓国人に対するヘイトスピーチ等、いささか喧しい。これは森達也の指摘を待つまでもなく、国内における監視社会=異端者排除システムを完璧に完成させた日本社会が今度は外に向かって、その異端者を探し求め始めたと言う事だろう。何も権力一人だけが勝手に突出して、こうした動きが出来る訳がない。

 

サリン事件以後、大半の日本人が持ってしまった危機意識をばねにして、オウムに対する数多くの人権侵害をオウムだけは例外だとして、それらを当然だとして追認し、むしろ率先し歓迎して来た私達の振る舞いを振り変えれば、権力だけが先走って人権侵害をしてきた訳ではないことは明らかだ。だとすれば今日の仮想敵国への敵意、排外主義は残念ながら多くの国民の意識の反映である事は間違いない。言い方を変えれば、権力を排外主義へと駆り立てているのは多くの日本人の意識にある、と言って良いだろう。

 

森達也は以下のように記して、今の状況を言わば「予言」していた。    

「サリン事件以降、メディアによって不安と恐怖を煽られながら危機意識で飽和したレセプター(引用者註/受容体=国民)は、やがて仮想的を求め始める。治安状況における意識と実態との乖離を、何とか埋めようとする。検察や警察など捜査権力の暴走は加速し、厳罰化は進行し、設定した仮想敵国への敵意は増大する。隣国との摩擦はこれから増大するだろう」(本書下巻260頁)

「サリン事件を契機として高揚した危機管理意識と被害者意識は、この社会の集団化と管理統制されることへの希求を促進し、結果としては疑似右傾化と保守化に結びついた」(本書上巻229頁)

異端者への攻撃は共同体内部だけに留まってはいない。共同体の外に敵をつくりだすことで、内部の意思はますます結束を強めて行く。異物を排除せよ。権力もこの絶好のチャンスを利用しない手はない。

 

2006911日、森達也は2001年の9.11から5年目のアメリカ、グランドゼロにいる。アメリカの9.11後と日本のサリン事件後とは見事に重複していると森達也は指摘する。

「サリン事件をきっかけに増殖した危機管理意識を背景に、日本社会は正義と悪の二元論に埋没した。この姿はそのまま、正義に陶酔し報復感情に煽られる9.11後のアメリカに重複する。でもアメリカを批判出来ても、日本社会は自分達が同じ構造に囚われている事に気づかない。究極の危機管理は仮想的への先制攻撃だ。過剰な免疫システムは、異物を排除する過程で、自らも破壊する----でも危機意識は決して充足しない。エスカレートするばかりだ」(本書上巻326頁)

そしてアメリカの現状について書くが、サリン事件後の日本と何と酷似している事か。

9.11によってアメリカは変質した。---異質な共同体に帰属する他者からの暴力に怯え、不安に苛まれ、セキュリティが一気に強化された。---入国審査の際の両手の人差し指の指紋の採取---球体カメラで顔写真を撮られる。列車に乗り込めば、各シートに1枚ずつ『不審な何かを見かけたら、すぐに報せるように』と書かれたチラシが---過剰なセキュリティと治安への幻想をいだきながら、アメリカは憎悪と報復を世界中にまき散らした。過去形ではない。それは現在進行形で続いている。なぜならいったん発動した危機管理意識は、力で仮想的を捩じ伏せても決して沈静はしない。敵がいない状態が怖くなるからだ。こうして安心を得たいがために新たな仮想敵を作り続けるというとても倒錯した構造に、アメリカは嵌まってしまった。米国務省の年次報告書によれば---2003年には208件しかおきていなかったテロは2005年には11111件に急増した。---イスラエルという国家の歴史と現状が示すように、強い被害者意識は過剰な自衛意識を整合化し、容易に他者への加害へと連鎖する。」(本書下巻71頁)

 

愛国者法(註参照)---この名前!---なるものが、即、成立し、国内はもとより、テロ掃討作戦という名の「正義」をかざして、国内はもとより、外国(アフガニスタン、イラク等)へ軍隊を導入し、テロリスト狩りを仕掛けた。全ては9.11の犯人はアルカイダだ、敵はテロリストだという認識の下に。敵を倒せ、葬ってしまえ! テロリストの定義すら曖昧なまま、テロリストだと言えばすべては許されるという状況を作りだした。もはや自由に物が言えない空気がアメリカ中に一挙に蔓延した。愛国が強要され、逆らう者は皆テロリスト。戦前の日本における「非国民」という言葉を思い出させるのに十分である。権力は国が違っても権力の内実は一緒である。

「危機意識が刺戟されたからこそ集団としてのまとまりや結束を希求し、さらには力強い何ものかにしっかりと管理や統治をしてもらいたいとの社会の思いが、強く反映されている」(本書上巻99頁)とサリン事件以後の日本国内の状況について、森達也は書いているが、これは愛国者法を成立させたアメリカの状況にもそのまま当てはまる指摘だろう(なお9.11については犯人はアルカイダではなく、いくつかの謀略説もある。下記註参照)。

 

ニューヨークのグランドゼロに来た森達也はピースフル・トモロウズ(September Eleventh Families for Peaceful Tomorrowsアメリカの対テロ戦争に反対する9.11の被害者遺族の会http://www.peacefultomorrows.org/)の集りに出かける。そこには世界各地からテロや虐殺、戦争などで被害者となった人たちが集まっていた。

この遺族の会は当時、全米が愛国者法の下に星条旗を振りかざし、「テロリスト」への憎悪を煮えたぎらせて、報復を正当化し、政権が対テロ戦争への道を選択していた時に、報復は新たな被害者を作り出すことであり、自分達が味わった苦しみをこれ以上広げない、暴力と報復の終わりなき連鎖を断ち切るために、という事から、9.11の被害者、自らが創設した会である。

 

全米の多くの人たちが、なかんずく遺族の大半が報復攻撃に賛成していた中にあって、被害者が抱いてしまう憎悪を自ら否定し、報復しない事を誓う---遺族達の心の葛藤を想像するにしくはない。己が被害者になったとしたら、圧倒的な人達が報復を叫んでいる中、愛国を強要されている社会で果たして報復感情をコントロールできるのだろうかと考えると、この会に参加している遺族達の強靭な有様に驚嘆する。当然ながら「アメリカ社会が彼らに向ける視線は相当に冷たい。---報復を否定する彼らは少数派だ。」(本書下巻7475頁)

 

こうした動きはオウムではなかった事ではないか。今もつてお涙頂戴の被害者意識だけが、強調され、オウムを生んでしまった社会については、誰も究めようとはしない、不問のまま。その結果、誰もオウムから学んで得たものがない。ただただ早くオウムを、あるいはオウムらしきものが消えてなくなることだけに関心を抱く日本。

9.11後のアメリカ社会に希望があるとしたら、このピースフル・トモロウズにこそある。日本が今日のような喧しい排外主義から脱却できる道は唯一ここにあるだろう。

 

 

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9.11謀略説

9.11がアルカイダではなく、政権内部説等いくつかの話もある。『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』(阿部芳裕著 徳間文庫 242頁)参照

 

●愛国者法---Wikipedia

20019月11アメリカ同時多発テロ事件45日間で成立し、米国内外のテロリズムと戦うことを目的として政府当局に対して権限を大幅に拡大させた法律である。この法律において電話Eメール、医療情報、金融情報や他の記録について当局に対し調査する権限を拡大し、アメリカ合衆国国内において外国人に対する情報収集の制限に対する権限を緩和し、財務省に対し金融資産の移転、とりわけ外国人や外国法人について規制する権限を強化し、テロに関係する行為をとったと疑われるものに対し司法当局や入国管理局に対し入国者を留置・追放する権限を高めることを規定している。さらに、「テロリズム」の定義を拡大し「国内テロ」をも含め、その結果本法は司法当局の拡大された権限を行使する場面が飛躍的に拡大している]

2001年の米国愛国者法: The USA PATRIOT Act of 2001)は、20011026日、ジョージ・W・ブッシュ大統領によって署名され、発効したアメリカ合衆国議会制定法である。法律の頭字語10文字(USA PATRIOT)はテロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する2001年の法 (: Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001 公立法107-56)を意味する。通常は愛国者法: the Patriot Act)と呼ばれる。

愛国者法は、テロリストによる2001年9月11日の攻撃に対応するため、特に法執行機関のアメリカ国内における情報の収集に関する規制を緩和し、財務長官が持っている資産の移動、特に外国の個人または存在が関与している場合、に対する規制の権限を強化し、法執行機関と移民を管理する当局がテロ行為に関係があると疑われる人物の拘留または移民の国外追放の規制を緩和するものである。愛国者法はまた、国内におけるテロ行為を含めるようテロリズムの定義を拡大し、こうして米国愛国者法が拡大した法執行機関の権限が適用される行為の範囲は大幅に拡大された。

2011526日、バラク・オバマ大統領は2011年の愛国者法日没条項延長法(PATRIOT Sunsets Extension Act of 2011に署名し、米国愛国者法の重要な3つの条項、[3]ロービング・タップ、企業活動の記録の捜査(資料記録条)、テロリスト集団ではなく、テロリストと関係がある疑いのある個人を意味する「一匹狼」に対する監視の指揮、は4年間延長された。

 

●ピースフル・トモロウズがブッシュ大統領に宛てた手紙 

 

ブッシュ大統領
拝啓 私たちは、2001年9月11日に家族を失った遺族の会です。今こうしてあなたに手紙をしたためているのは、対イラク戦争に国を導いていくあなたの方針に、私たちがやむにやまれぬ不安を抱いていることをお伝えしたかったからです。

私たちはあの日以来、苦しみ抜いてきました。私たちほどテロリズムに終わりが来ることを願っている者はいないと思います。だからこそ、外交を軸に諸外国と歩調をあわせた上、暴力を使わずに、イラク政権によって引き起こされるかもしれない危機からアメリカ人を守っていただきたいのです。
私たちのグループ September Eleventh Families for Peaceful Tomorrows(平和な明日を求める9・11遺族の会)は、私たちが受けたような血も涙もないテロリズムによる苦痛や喪失感を耐え忍ぶ家族が、この先地球上に生まれることのないよう力を合わせるために結成されました。
イラクに対する戦争が行なわれれば、多くの一般市民の家族が苦しむことになるでしょう。私たちの家族が9月11日に経験したのと同じ苦しみを、多くの人が、その時いてはいけない場所にいたというだけで味わうことになるでしょう。戦争はまた、米軍兵士達を危険な場所に送り込むのですから、死や苦しみを受け止めなくてはならないアメリカ人家族も増えるでしょう。イラク問題の解決に戦争以外の方法をとっていただきたく、こうしてあなたにお願いしているのは、アメリカ軍人のため、そしてイラク市民のためにほかなりません。
あなたは、私たちの愛する家族の命日を、故人に思いを寄せるためではなく、9月11日の出来事には関わりを持たない国への戦争を呼びかけるために使いました。私たちはがっかりしています。
そればかりか、イラクでの戦争が始まれば、9月11日の事件に関与した人間を逮捕して法で裁くために必要な資金や人材がそちらに割かれてしまう心配もあります。
この戦争で中東の地域全体が不安定になれば、ほかの国々でも数えきれないほどの一般市民が命を落とす恐れすらあります。殺される人が増えれば、テロリズムの火に油を注ぐようなもので、テロ組織にとっては人集めがたやすくなり、つまり私たちはもっと脅かされるようになるのではないか。そう思うと、胸が痛みます。
もうひとつ心配なのは、新たな戦争によって、アフガニスタンに安定と民主主義をもたらすために貢献する余力を、アメリカが失ってしまうのではないか、ということです。私たちのグループは、今年、幹部2名をアフガニスタンに送りました。グループのメンバーが会った普通のアフガン人家族の多くは、アメリカがアフガニスタンを見捨てるのではないかと心配しています。アメリカがアフガニスタン再建支援の責任を放り出すなど、あってはならないことです。アフガニスタンが不安定なまま放置されたら、アメリカの人々にどれだけの影響を及ぼす恐れがあるかは、私たちが誰よりもよく知っています。
最後に、私たちが深く心を痛めているのは、あなたがイラクに先制攻撃を仕掛けるつもりであること、そして、必要であれば単独でも行動に出ると言っていることです。国同士のつながりや依存度がますます強くなっている世界で、こんな前例を作ってしまうことはとても危険です。世界のリーダーとしての役割をになうアメリカがそのような行動に出るべきではないと思います。ほかの国々が自国の問題を解決しようとするとき、最後の選択肢ではなく、最初の選択肢として軍事行動を取ってもよいのだ、という悪い手本になってしまいます。
この一年、私たちひとりひとりは、愛する家族の死に対する答えを、怒りの衝動にかられて探し回るのではなく、私たちのような苦しみを味わう家族を生まない世界を作るという真心からの願いを糧に探し求めてきました。あなたもいっしょに、平和な明日への道を追求してほしい。それが私たちの愛する家族の死に報いることになると思うのです。アメリカには安全な国であってほしい。そして何よりも、地球上のどこかで、9月11日が繰り返されるのを見たくはありません。
お返事を心からお待ちしております。
敬具
2002年9月23日
September Eleventh Families for Peaceful Tomorrows
(平和な明日を求める9・11遺族の会)

 

RunaPinkなごたのサイトより https://plaza.rakuten.co.jp/tsukipink/22004/


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●監視社会がやって来た

 

「子供たちが下校します。地域の方々、子供たちを暖かく見守ってください」---近頃、子供たちの下校時刻が近づくと、防災無線からこのアナウンスが響き渡る。これはどうやら全国的に展開している「見守り運動」と名付けられたものらしいのだが、この見事なまでの善意の発露。誰も逆らう事が出来ない善意。いわば善意の無言の強制。


オウム以後、「被害妄想と正義の幻想に囚われた共同体は内部結束を強めながら自分たちにとっての悪を攻撃する」(本書上巻326)と森達也は述べ、オウム以降「善悪の二元化」が急速に進んだと指摘する。この当時の大半の日本人の麻原およびオウムに対する意識について、たとえば「麻原は希代の極悪人であり、オウムは史上最悪の殺戮集団である」(本書上巻149頁)あるいは「麻原は、純度100%の悪を体現した」(本書下巻205頁)と書く。つまり彼らは悪であり、一方、自分達はその対極にあって善である。彼等が絶対的な悪ならば、こちらは絶対的な善。悪と決め付けたものに対しては躊躇うことなく振る舞う事が出来てしまう、この「傲慢」さにも気がつかない善なる者の意識。

防災無線のアナウンスはこの時、形作られた意識を一貫して持ち続けて、監視社会の一翼をかついでいる証だろう。民家の玄関に「子供110番の家」という張り紙をみることがあるが、これとて同様ではないか。

 

一説によれば、日本はイギリスをぬいて世界で1番目に監視カメラが多い国だと言う(本書下巻323頁)。僕らはどこへ行っても監視カメラのレンズから自由にはなれない。犯罪予防という名の下にあちこちに設置されているカメラ。カメラはあらゆる人を撮影し記録する。

近頃の事件報道にはこのカメラが写した映像が放映されることがほとんどだ。警察はどういう法律に基づいて、これらの映像を入手できるのだろうか。もちろん店側の協力がなければ不可能だ。おそらく摘発に協力しないのか、悪をそのまま放置しておいて良いのか、という同調圧力をかけているのだろう。と言うよりもオウム以後の日本人の意識を考えると率先して協力しているはずである。「自分たちは正義であり、無辜の民であり、害をなす悪を成敗するのだとの意識のもとに」(本書下巻260頁)そう厄介なのは正義なのだ。

コンビニやガソリンスタンドのカメラに写っている犯人と目される人はその店のお客さんである。店は被害者になった訳ではない。だからこれらの映像はこの店にとって無関係なものだし、完璧に店の防犯とは別の映像だ。店としてはその映像が目的外に使われてしまうはずなのだが、果たしてその意識は店側にあるのだろうか。商店や商店街は「警察官立ち寄り所」という看板を下げて、昔から地域の防犯協力会などを組織し、警察とはギブアンドテイクで付き合ってきたという事を含めて考えれば、店側の協力は何ら問題なく進行しているはずである。この防犯協会とは別の組織と思われるが、森達也は防犯ボランティアという団体について「2003年末に全国で約3千だった防犯ボランティア団体の数は2009年末には約4万3千に増殖した」(本書下巻168頁)と指摘し「おそらくこれからはもっと増えるだろう」としている。

監視カメラが私達を見張っている。監視カメラのレンズが私達に「悪事を働かない、善良な市民であること」を無言で強要する。ますます僕らは共同体に埋没する。僕らは委縮して共同体の中に留まる。かくて日本人の仮面はいよいよ頑強なものになって行く。仮面を被って、脱ぐことができない。その精神構造を頑なに守り続ける。

 

また携帯電話の発信する電波から、その位置情報を取得して、犯人を逮捕すると言う事も行われている。この情報を使うことは監視カメラと同様に法的根拠はどこにあるのか。異端者排除の意識を持ってしまった共同体では、法的根拠など無意味であり、この情報を掌握しているはずの電話会社は問題にはしていないはずである。

 

監視カメラや携帯電話だけではない。サリン事件がおきてから「「テロ警戒中」や「不審者に注意」などの掲示やアナウンスがいたるところに氾濫し、子供達は防犯ブザーやGPS機能付きの文房具を必需品として常時携帯し、本来は非合法であるはずの微罪や別件逮捕が、街に蔓延る悪を駆除するための措置として当たり前とされてゆく。治安悪化を理由に少年法や精神保健福祉法などが厳罰化の方向に改訂され、例外が常態化してゆく。ところが社会のセキュリティ化が濃密になればなるほど、そこに暮らす人たちの恐怖や不安は(皮肉なことに)さらに刺激され、亢進する。オウム以降、日本社会はこのスパイラルに落ち込んだ」(本書上巻344頁)そしてアメリカの2001年の9.11以降、この恐怖と不安の連鎖は世界に拡散した、と森達也は書く。

 

さらに思い出すのは駅や街角にあったゴミ箱というゴミ箱が一斉に撤去されたことだ。爆発物があってはいけない、危険なものがあってはいけないからという理由だ。いまやゴミ箱がないのは当然の風景となったが、地球を汚さないという名目に変わって、ゴミは家庭に持ち帰ることになり、ゴミ箱のない風景にもはや違和感は持たなくなってしまった。

駅構内や車内では「不審物らしきものを見つけたら、直ちに係員に連絡を」とのアナウンスが執拗に繰り返され、電車の終点などでは係員が見回って、「不審物」がないか、見回っていたりしていた事を思い出す。その放送は最近でこそ聞かなくなったが、一時はうるさいほどに、繰り返えされた。かくて、この国は異物を探し出すことに今も躍起である。

 

●便利で危険なIT

 

最近、あるMLで発信されたメールは日本の監視社会の現状について、以下のように述べている。「今まで、体制側は「犯罪防止」という大義名分のもと、様々な市民監視システムを張りめぐらせました。高速道路のETCシステム、一般道に設置しているHシステム、IC運転免許証、携帯電話、常時アクセスしているパソコン機器など、利便性と抱き合わせで、ずいぶんと普及しました。これらは「諸刃の剣」で、市民監視システムに早がわりです--- また。パソコンはWIN8から、さらに情報収集の強化がされていると思って間違いないでしょう。WIN8からはネットによる認証が必要になっています。またタッチパネルは「指紋照合」機能にもなりますので怖いですね。
 これらを管理しているマイクロソフトそしてGOOGLEなどが一手に世界市民の情報を握っているのでしょう。だから、おそらくこの情報へのアクセス利権取得として、日本の体制も世界体制へ従うことになるとの側面もあると思います。日本の権力層はNWOサークルに入ろうと、尻尾をふりまいていることも推測できますね。グーグルアースなどは、おそらく接続した機器の所在を逆送信していると思います
」と警告している(これらのシステムとNWOについては脚注参照)。

 

さらに付け加えれば駅の改札を通る時に使われるSuicaなるカード。そこには持ち主がどこの駅で乗り、どこの駅で降りたかが時間と共に記憶されていて、個人の行動の軌跡を確実に掴まえる事が出来るという、これまた監視社会の危険な代物である。

先述したように携帯電話は位置情報を発信/記録しているが、携帯メールに書かれた語彙を索引のようにピックアップすることで、その語彙を使った携帯を捕捉する事が可能である。NHKは以前、原発爆発後の福島県の携帯電話が、どのように移動したかを日本地図を使ってその軌跡を詳細に分析し、さらにどんな事がどれだけ語られたかをその語彙から計測して、番組を構成していた。この膨大な情報をNHKは電話会社から入手したと思われるが、その法的根拠はあるのか、その携帯所有者に事前に了解をえたのか、という疑問が湧く。

 

ネット上で何かを検索すると、しばらくしてから「あなたへのお薦め」や「これを買った人はこれも買っている」という親切を装ったお節介なメッセージが届く。だが、この親切さこそ曲者で、中でも本などは確実にその人の価値観を掌握している事を物語っている訳で公安警察にとっては、又とない、ありがたい一つのITシステムである。

 

便利さと安さを売り物にするITを多くの人が取り入れて来たが、実は取り込まれてしまっているというのが本質だろう。ITのシステムが蓄積しているこのような膨大な情報は誰が名付けたのか、「ビッグデータ」と呼んで、NHKの番組のようにビジネスに利用していく動きがあるが、これはそのまま「公安ビジネス」に直結している。僕らのメールやメーリングリストは既に公安警察が密かにチェックし、その時を待っているはずである。中国政府はすでにそれを実行している。何かを企むとすればこうしたITのシステムからどれだけ離れる事が出来るかが、その企みの成否の鍵を握ることになるだろう。


被告の精神鑑定の必要性を説く弁護側の意見を無視し、判決のスピードを追求して、真っ当な裁判をうける権利を保証せず、また一方、麻原の子供達の公教育を受ける権利の剥奪や住民票登録受け入れ拒否、あのリベラルをうたう私学和光大学さえ、子供達の入学を拒否してしまうと言う、今から振り返って見れば異様に映る数多くの現実。

全てはオウムだけは例外だとして、人権を踏みにじってきた、日本社会。その時、何の躊躇いもなく、こうした権力の横暴をむしろ積極的に勧める役割を担ってしまつた私達、そして日本の共同体の意識構造。


対象はオウムだけのはずだつた事が、今やその例外が例外ではなく、常態化して、自分たちに向かって来ていると言う今日の完璧な監視社会。ーーオウムを「スルーしてきた」これが僕達が背負うことになつた、降ろすことが出来ない、重荷に他ならない。


-------------------------*/主にWikipediaによる-----------------------------------------------------

◆高速道路のNシステム

これは速度超過取り締まりという名分のもと、実は「Nシステムを通過した車両(2輪を除く)を全て記録し、警察の手配車リストと照会する。手配車両が通過した場合、手配車両と判明と同時に車種・所有者・メーカーなどが割り出され、警察車両に「N号ヒット」と一斉指令が流れることで付近を巡回中のパトカーや捜査車両に通知され、知らされていた車輌を追尾、検挙となる。盗難などの手配車両の監視、被疑者の追跡など警察で用いられ、重大事件発生時などは不審車両の洗い出しに使われる。

Hシステム

自動速度違反取締装置(じどうそくどいはんとりしまりそうち)のこと。道路を走行する車両の速度違反を自動的に取り締まる装置である。通称はオービス (ORBIS) 。いくつかの方式があるが、現在、最も多く設置されている取締機。「電子画像撮影・伝送方式」と呼ばれ、撮影装置内部にフィルムを装てんするものではなく、撮影したデータをただちに通信回線を通じて管理センターに伝送する。そのため従来型の欠点であったフィルム切れは基本的になくなった。

◆NWO

1 新世界秩序(New World Order、略称NWO)とは、国際政治学の用語としては、ポスト冷戦体制の国際秩序を指す。また陰謀説として、将来的に現在の主権独立国家体制を取り替えるとされている、世界統一政府による地球レベルでの全体主義体制を指すものとしても使われる。(Wikipedia)

2 New World Orderとは、別の言い方ではOne Worldであり、一般的にはGlobalizationと言われている。その目的は、一部の国際金融資本家と知的エリートが絶対的な権力で大衆を管理・コントロールする「平和な」社会をつくること。すなわち中央集権主義=Centralismである。その方法としては国家権力の上位に超国家権力を置きその機関を支配することによって全世界を支配する。戦略としては「分割して統治せよ」「両建て作戦」「正+反=合」そして「分裂と混沌」である。(ブログ「ふるやの森」より)

 

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かくて森達也は検察、裁判所、マスコミ、国民を向こうにまわして、たった1人でオウム裁判の異様さを撃つ。それは日本という共同体への闘いでもあり、日本人の精神構造に対する闘いでもあった。森達也は繰り返す。裁判が被告人の権利さえ無視して、急いで判決を下したのは、オウム自体を消し去ってしまいたい、という「共同体」の意識がもたらしたものだ。「削除したい、無かったものにしたい」。事実、山梨の上九一色村にあったサティアンは1995年のサリン事件の翌年には取り壊しがはじまり、1997年には「富士ガリバー王国」なるテーマパークが作られた(本書下巻239頁)。裁判がやっとはじまったところだというのに。言わば証拠となるものが消し去られてしまった。「上書きしたい、覆い尽くしたい、とにかく消したい、忘れたい」と森達也は書く。ここに共同体の意識/精神構造がある。

2011311日、津波で流された舟等をモニュメントとして残すか否か、ということが、言われてきたが、結局は当時の悲惨さを思い出して辛い、ということから多くの物は残されずに取り壊されたことと、相通じるものがあるような気がする。

 

●僕のオウム体験

 

僕がオウムを直接的に知ったのは、東京の表参道での選挙風景だった(本書の年表によれば1990年2月)。何とも理解しがたい風景だった。「ショウコウ、ショウコウ、アサハラショウコウ」と像(ヒンズウ教の神、ガネイシャの化身と言われる)の縫い包みを着て、踊りながら連呼する様は見ているだに恥ずかしかったことを思い出す。連呼には変わりはないが、実に恥ずかしい風景だった。

その後、サリン製造の事を知ったのは山梨でだった。この頃、僕は東京と山梨とを行ったり来たりしていたのだが、すでにこの時、オウムは山梨の上九一色村にサティアンと呼ばれる施設を作っていた。オウムはサリン製造が疑われた時、「サリンではなく、農薬を製造している」と確か広報部長/上裕史浩が記者会見で発表していた。僕は農薬を作る宗教団体とは?! 一体何に使うのだろうと不思議に思ったものだ。近所に宗教団体GLA<God  Light Association>の研修センターがあるが、そこの事務局長はとても理解できないと首を傾げたことを思い出す。

ところで麻原彰晃は自身初の著作『超能力「秘密の開発法」』を1986年に出版したが、この頃GLAの創設者、高橋信次の本を読み耽けり、そしてその後、阿含宗に入信したという(本書下巻37頁)。

 

麻原の子供たちが学校への就学を拒否されたり、いくつかの大学が入学を拒否したが、あのリベラルと言われた和光大学においてさえ、入学を拒否してしまった(本書上巻175頁)と言うほどの共同体の異端者への排除の意識のまん延化!「ほとんどの人権団体はこの事態に抗議しない。声を上げない---明らかな異例が明らかな常態になっている」(本書上巻180頁)

信者が住民票の申請をあちこちで拒まれたりしたことは知って「おかしい」とは思ったが、それ以上の意識は僕にはなかった。その結果、他者の人権や生存権を侵害していたことになるのだが、ことさら罪悪感は持たなかった。先のメールにあるように、まさに「オウム問題をスルーしてしまっていた」。僕も結果として日本という共同体に絡めとられ、身動きできなくなっていたのだった。

繰り返すようだが、だから警察や検察、裁判所、そしてマスコミはこうした国民の意識に後押しされ勇気づけられ、いよいよ身勝手な振る舞いを生んで行った事は想像するに難しくはない。森達也は書く。「オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある」(本書上巻180頁)森達也は別の所でも「オウムについてはあれだけは例外だとする。でも例外は例外のままではとどまらない。必ず前例となる。そして全体を少しづつ変えて行く」と繰り返し指摘している。

 

そう、何もしない、目立つことはしない、声を上げない、誰一人として突出しない、極めておとなしい日本人は皆今度はオウムへの加害者になってしまった。寄って集って、オウムを早く抹殺しようとした。「凶悪犯は吊るせ!」

 

その後、20035月に山梨県大泉村では白装束集団の建物建設を拒否する動きがあった。村長を議長にして、住民が一丸となって、「パナウェーブ研究所対策村民会議」を作り、彼らの入村を拒否したのだった。「オウムの再来ではないのか」「何やら得体の知れない団体だ」「理解できない不可解な集団だ」という、この頃の住民や別荘族の言葉を見ると、こうしたことがきっと日本のあちこちで起きていたと言う事が想像できる。まさにオウムの後遺症である。

 

 


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d0229170_23261211.jpg 読み始めたら、さにあらず、躊躇うことなく頁をめくる事が出来たのは、ひとえに森達也の筆力と構成力による。圧倒的な量の裁判資料等の読み込みとオウム信者への詳細な取材に裏打ちされていることがそのバックボーンにあることが読みすすめていくにつれて理解でき、その力に圧倒される。

また月刊誌(月刊「プレイボーイ」20052月号から200710月号)の連載をまとめたものだったので、各章ごとに比較的短く書かれていたことも幸いしたのかも知れない。この本は当初、201010月に集英社インターナショナルから単行本として出版されたが、僕が読んだのは集英社刊の文庫上下2冊(201212月初版発行のもの)だ。

 

●オウム以前と以後

 

本書で森達也はさまざまな視点から、問題を提起しているが、特に一貫して強調しているのはオウム以前とオウム以後で世界の様相が全く違ってしまったという指摘にあるだろう。

たまたま「週刊金曜日」のバックナンバー見返していたら、森達也の「すべてはオウムで変わった/「麻原を吊るせ」の大合唱が揺るがないこの国」(2011年12月16日号)と題した文章を見つけた。

「地下鉄サリン事件は---(あの時刻に)地下鉄に乗っていたら、自分や自分の家族が殺されていたかもしれないという危機意識を国民レベルで刺激した。つまり被害者感情の共有化だ。--彼らが不特定多数の人を殺傷しようとした理由を明確に解明できないことで、不安や恐怖はさらに刺激され、社会の集団化を加速した。そして集団は結束を強めれば強めるほど(9.11後のアメリカが示すように)、外部の敵や内部の異物を探し求め、攻撃して排除したくなる。さらに集団内部の同調圧力が強くなることで、個は全体と違う動きがしづらくなる。こうして集団は善意や正義の旗を掲げながら、足並みを揃えて暴走する」と書き、本書と同様の主張をここでも展開する。

 

本書には森達也の以下のような指摘を読み取る事が出来るが、アンダーラインを引いた箇所があまりにも多く、その一つ一つが考えさせられる。

1 裁判の異常さ 

2 日本人の精神構造の持つ意味

3 人権侵害をいとわない法律の制定と改定

4 監視社会の必然的到来

5 マスコミのポピュリズム志向

6 9.11後のアメリカ社会との共通性

 

●「超法規的」という名の違法な訴訟指揮

 

そもそも森達也が麻原裁判の一審判決(2004227日)を傍聴した時に感じた被告人の異様な振る舞い----精神に異常をきたしているのではないか、人間として壊れているのではないか---そこから森達也のオウム裁判への懐疑が始まっている。

「僕が衝撃を受けたのは---麻原の姿に対してだけではない。---彼の様子を長く目のあたりにしながら、それまでに1度も精神鑑定の実施を発想すらしなかった司法と、この経過を傍聴席で観察しながら、「見苦しい」とか、「反省の色なし」等の語彙しか使ってこなかったほとんどのメディアに対しても、同様の衝撃を感じていた」(本書下巻220頁)

 

しかし検察は元より、裁判所、マスコミなどがこぞって麻原の態度を刑を逃れるための詐病---この言葉は始めて聞いたが。病気でもないのに、病気であると偽る事、と辞書にある----と断じ、裁判所は訴訟能力ありと判断し、精神鑑定をせずに、裁判を急いで死刑判決を下した。被告人としての権利などは無視して進行していく裁判。全ては凶悪な犯行を犯したから当然だという、当時の大方の日本人が持ってしまった共通意識に後押しされ、自ら司法が法律違反を犯してまでも展開する「超法規的」訴訟指揮。それは己がいつの日にか、被告人になるかもしれない事を考えれば、自分の権利がはく奪される事になるにもかかわらず、そんなことには気が付く様子すらなく、早く結論を求める世論。

 

二審の弁護団は裁判所が正式な精神鑑定を依頼しないことから、200410月から、独自の鑑定を6人の精神分析医に依頼、麻原の症状は長期の拘束からきたものであり、ある程度の期間を掛ければ治癒するものだという結論を得(本書上巻305頁)、訴訟能力はないとした。その後、高裁は(追い詰められ、出来レースの)鑑定を2005年に依頼、訴訟能力ありの結論を得て、2006327日、高裁は控訴を棄却、その後、最高裁は特別抗告を棄却して、2010915日麻原彰晃の死刑が確定した。

こうして麻原本人の口から事件に至る過程を聞くことは全く不可能となり、もはや彼の意思、考え方等、誰も知る事が出来なくなってしまった。その結果いよいよ何だか訳のわからない、理解不能な凶悪な集団というイメージが強固に作られ定着し、それがまた憎悪を増幅するというスパイラルに大方の日本人はいよいよ陥ってしまつた。

 

●日本人の精神構造

 

こうした意識が日本中に蔓延したのだが、これは何もサリン事件によって始めて登場したという訳ではない。その下地は日本社会そのものにあり、従来から日本人が持っていた精神構造であり、サリン事件がその意識を増幅させたという事ではないか。

日本人は集団=共同体において、目立つことはしないし、周りと違った事は言わないし、突出した行動を取らない事を美徳としてきた。そういう精神構造を頑なに守っている人種、それが日本人だ。この場合、共同体とは国であり、市、町、村であり、小さな集落である。また会社等の組織である。この意識の背景にあるのは共同体は足並みをそろえる事を暗黙のうちに、時として有力者の声として要求する事にあるだろう。構成員はその事を、森達也が何回も文中で使うように「忖度」する。そして「過度の忖度」をすることで己が共同体の1員であることの存在理由にして行く。こうして共同体には異端者は要らない、邪魔者は敵だ、という共同の意識がつくられて行く。

 

 

 


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その投稿されたメールは以下のように始まっていた。


「彼が制作したオウム真理教のドキュメンタリー映画「A」「A2」。日本で初めての無差別テロとも言われるオウム真理教のサリン事件については、なぜこのようなことが起きたのか、いまだに全く解明できていませんが、裁判所も人々も、そのことに関心があるようには思われません。全員死刑にすればそれでおしまいのように。そして、「麻原彰晃」という人物はいなかったかのように。2010年11月、集大成ともいえる『A3』という本が出版されました。まさに”日本人”の本質に迫まる渾身の作品です。あの事件はなぜ起きたのか、あの事件によって社会はどのように変わったのか、今一度立ち止まって考えてほしいとの強い思いが伝わってきます。私は、そのことをスルーしてしまうことが、現在の日本の状況と深く関連があると思っています。」


このメールはあるメーリングリストへの投稿だった。天皇制についてのやり取りのなかで、出て来たメールだった。「(今こそ政治を話そう)内なる天皇制 映画監督・作家、森達也さん」と題された森達也への天皇制をめぐるインタビューの話題の中でだった。(朝日新聞」2013年11月27日朝刊)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201311260611.html?ref=pcviewer


さらに続けて、そのメールは言う。
「 その『A3』ですが、近著『「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』の中でも、『A3』は書店にも置いてもらえない、手に取ってもらえない、読んでもらえない、一行でも読んでもらえれば・・・と書いています。まさにオウムが排除されるように、この本も排除されている気がします。多くの人に読んでほしいです。」
 
でもいまさらオウムでもないな、と思ったのだが、妙にひっかかって気になったのは「私は、そのことをスルーしてしまうことが、現在の日本の状況と深く関連がある」というフレーズだった。オウム事件への数多くの日本人の対応が今の日本の状況を作り出した、とそのフレーズは読みとる事が出来た。でもいまさらという思いは捨てきれなかったので、読むのはしんどいだろう、当然、棒線を引くことになる、図書館の本ではこれはまずい、そこで買い求める事にした。amazonで1円の中古があるはずだと。この目論見は見事失敗したが。
 
《続く》

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運動が下火になつたり、参加人数が少なくなってきたりしていることを耳にしたり、目にしたりした時、いつも思い出すのは、あの彼の事だ。
まだ僕が山手線に乗って通勤していた頃のこと。彼は胸と背中にゼッケンをつけて、いつも同じ席に座っていた。そこには「ベトナム戦争反対」と書いてあった。彼がもちろんどこから乗ったのか、どこで降りるのかは知るよしもなかつた。たまたま毎朝、同じ電車に乗り合わせていただけだった。
彼も誰かに話しかけたり、周りも話しかけたり、しはしなかった。ある時はじつと目をつむり、ある時は本を読んでいたりしていた。
当時はもうベトナム戦争反対の運動がそれこそ下火になつていたころだ。
僕はそこに彼の強い意志を感じとつていた。

「1人になっても続けていく」
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# by kyureki | 2013-12-16 10:15 | 反原発
d0229170_00001022.jpg 映画、「犬と猫と人間と2―動物たちの大震災」を見た。またその会場で購入した、本、『原発一揆』も帰宅後、一気に読み終えた。本は映画でも描かれた「希望の牧場」の誕生から今日までをまとめたもの。命のあり方そのものを考えさせられた。
 人の都合で原発を作り、爆発事故を起こして、放射性物質をまき散らす。あらゆる生き物たちが被爆した。原発の存在を知っていた人はまだしも避難所に逃げ込んだりする事ができたが、それを知る由もなかった人以外の生き物たち、動物や植物は理不尽な生を強制されるしかなかった。それはすべて人の都合だった。
 ペットを始め、飼育されていた牛、鶏は置き去りにされ、面倒を見きれない人達は飼育していた動物達を放すことで何とか餌を探して生き延びて欲しいと思ったに相違ない。人影が消え、信号だけが点滅する街を、放棄された田畑を、食べ物を求めてさ迷う多くの動物たち。その異様な光景はそのまま人の生き方の異様さを映し出している。
 経済動物と言われる牛や鶏は取引が不可能となり、価値はゼロとなつた。かといって他所へ移送して飼育を続ける事は被爆量の多さから、許されなかった。政府=人の都合で殺処分が決定され、多くの経済動物が、その命を絶たれた。
 しかしここに政府の殺処分方針に応じず、自らの命をかけて、牛の世話をする人がいた。その牧場の名を「希望の牧場―ふくしま」そして牧場主、吉沢正巳。また片道2時間かけて、自腹で牧場に通うボランティアの女性、岡田久子達が間借りしているのが「やまゆりファーム」
 高線量下の警戒区域で、出荷も出来ない、他へ移送も出来ない、まさに前途真っ暗な途、絶望しか見えてこないと思われる中で、あえて「希望」という名を掲げて、牛の面倒を見る人。己を今もって高線量を浴びている牛達と同じ環境に置く。全ては人の都合だった。そのもたらした結果全てを一身に請負い、その場で生きて行くしかない牛と共にその生=死を生きようとする。
 どういう命を生きて行くのか、人はもちろんの事、あらゆる命のあり方をこの映画と本は僕に問う。

 他者の命なくして、人は生きて行けないにも関わらず、決して殺される事のない、食物連鎖の頂点に立つ人はあらゆる命を支配下に置く。人の都合でどのようにでも扱える。だからか、牛等は人のためにあるとして経済動物と呼ばれる。いずれは屠殺される命だとしても狭い牛舎に繋いでおく事もできるし、広い牧場で自由に動き回れるようにもすることもできる。牛が健康でストレスなく、生きる道を用意するのか、それとも人の都合=経済性だけを追求して正に経済動物として牛を支配するのか。

 翻って僕がささやかに作っている野菜。農薬を使わず、肥料を施さず、そして何よりも畑を耕さない、という自然農と言われる農法。耕す事はそこにいる微生物たちを殺すことになるし、農薬を使う事は虫達を殺す事になる。草や虫を始めあらゆる命を敵視しない、命と共生する農法。
一方、畑を耕し、農薬を散布し、化学肥料を施す、いわゆる慣行農法。それは作物の肥大化と増収を目論む人の都合=経済至上主義を勝手に野菜に押し付ける。野菜が野菜として生きて行く、本来の生を全うしていくことを手助けするという発想はない。それは野菜にとって果たして幸福な事なのか。姿形が同じ野菜でも、味が全く違うのは、野菜がどういう生を全うしたかによる筈だ。
 今まで僕は自然農を環境に負荷/ストレスを与えないものとして、考えていたのだが、この映画や本に触れて、野菜自身の命のあり方に沿う農法として、考えるようになった。

 こうした事は卵や鶏、豚、牛等全てに当てはまる。それぞれの命が無理なく、ストレスなく、己の生を全うする時、いずれ人によって殺されるにせよ彼らは幸せな生を送ったと言える。そしてそれを口にする人もまた幸福である。そうした命を育むことに、共にある、そしてその命を頂くという関係。どのような食べものを選ぶか、という事はその食べものがどういう生を全うしたかを選ぶ事であり、取りも直さず、己がどういう生を生きていくのか、ということとパラレルな関係にある。「希望の牧場」で牛と一緒に命=死を全うしようとする人たちは僕に教えてくれる。

*「希望の牧場―ふくしま」のHPは以下。
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/

「やまゆりファーム」のHPは以下。
http://ameblo.jp/yamayurifarm/

*なお、この原稿は地元の地域通貨「わくわく」新聞2013年11月号に投稿したもの。
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# by kyureki | 2013-11-17 17:19 | 反原発

これでも罪を問えないのですか! (福島原発告訴団50人の陳述書)

福島原発告訴団 / 金曜日

落合恵子さんの文章を最近、読んだ。暫く振りに爽やかな気分を味わつた。
この文は週刊金曜日が発行した、
「これでも罪を問えないのですか! 福島原発告訴団50人の陳述書」
の冒頭部分、前書きのところ。
たった2ページなのだけれど、中身は実に濃いいし、感動的。情と理が見事に融合している。
最後の一文、「これはお願いではなく、要求である」が鋭く迫まる。
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# by kyureki | 2013-09-17 22:14 | 反原発

自然とは山や川などの景観だけを指すのではない。人を始めそこに暮らす多くの生物達も自然を構成している一員だ。植物や動物は元より微生物を始め、あらゆる生き物が生を営んでいる場、全ての命がお互いに共生関係にあるその総体が「自然」と呼ばれるものだ。1つでもそこにある命が欠ければ、その「自然」はバランスを失い、そこで暮らす他の命を脅かす。
今、中部横断自動車道の工事が取り沙汰され、生きとし生けるものの命が危険にさらされようとしている。
実はあらゆる生き物たちも、鳴き声や仕草によって、その気持をあらわしているはずだ。人がそれに気づかない、気づこうとしないだけだ。
「もうこれ以上、高速道路なんて作らないでくれ、平穏な日々を過ごしたいのだ」
ここに自然に生息する全ての命の代弁者として声を上げる事にする。
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経済成長には高速道路が必要だという見方がある。果たして資本主義経済なるものは永遠に成長し続けることが可能なのか。
経済成長による地球環境の悪化が指摘されて久しいが、もうとっくの昔に経済成長は限界を超えているのではないのか。
経済成長という幻想に憑かれている限り、人びとの暮らしは無視され、常に高速道路を始め、「公共」工事=「公共」投資なるものが、優先されてゆく。
しかしこの「公共」工事、公共とは名ばかり。あたかも総体の経済成長を目的にしているかの如くに見せかけるが、実態は力有るものの利権の温床であり、その利権に預かった者だけが「公共」という美名の下に、「成長」して行くという総体の経済成長どころか極めて私的な成長を諮るもの。
中部横断自動車道とて同じ構造にある。
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