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クマールの母はジャイナ教徒だった。クマール自身は9歳で出家し巡礼修行僧に。18歳の時、思うところがあって僧をやめ、ガンジーの描いた土地改革の活動家になるのだが、この本の第1章はジャイナ教徒の母から学んだ事が語られる。母の話は自然を譬えにし、実に分かりやすくその思いを我々にも伝えてくる。

たとえばこんな風に---------。
「人間は大地の恵みを取り始めたら限度というものを知らずに、大地が枯れ果てるまで取り続ける----蜂は花の蜜を蜂蜜に変える一方で、花を受粉させもする。どれだけの人がそういう事をできるでしょうか。私達が自然から学びさえすれば、大地を傷めつけずに大地から受け取り、受け取ったものを蜂蜜のようになにかに変え、木の葉が土に変えるように大地に返すでしょう。自然には無駄ということがない」
「呼吸はあなたと世界を結びつける。あなたは同じ生命の呼吸を、同じ空気を、すべての人と分かち合っている。動物、鳥、魚、植物、そして宇宙全体と同じ呼吸を分かち合っている。呼吸を通じてみんなが繋がっている。空気には、どんな壁も堺界も、差別や分離もない。呼吸に注意を払う事で、あなたの分離の感覚は消えてしまう」





More 未完
「君あり、故に我あり」を読む 3

本を読みなおすことはほとんどないのだけれども、この本は何回か読みなおしている。この本を知ったのは東京新聞の読書欄。実は2月から郵送でこの新聞を取り始めた。界隈はこの新聞の配達区域外なので止むを得ずの措置。
東京新聞を取ろうと思ったのは反原発を旗印にしていて、原発関係の記事が充実していて、多くのマスコミとは一線を画していると聞いたから。確かに原発記事で溢れている。原発だらけと言ってよい。1面から、毎日、関係の記事でいっぱいだ。




そんな新聞なので、本当は「東京反原発新聞」と呼んだ方が正しいのかもしれない。さて読書欄の記事は上のようなものだ。------これ読めるのかしらん。SCANをやりなおしたが、さてどうか。
「君あり、故に我あり」を読む 2

この本のタイトルとして使われているのが、この25章。

本書のタイトルは言うまでもなく、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対峙して使われている。
クマールは存在基盤そのものを自己に置く、このデカルトの発想が二元論なのだと指摘し、精神と物質、心と体を分け、世界を分析、分割、分類、支配する対象物の集合として捉える思考だ、とする。この分離して考えることが今日の西洋文化の支配的パラダイムになっていて、諸悪の根源だと指摘する。
ニュートンは宇宙を機械として捉え、ダーウインは強い種が弱い種を支配し、フロイトは精神は肉体とは隔離されているとするが、これらはみな自我を中心に据えた二元論なのであり、「これらの理論が今日の環境や社会や精神の危機の根底にある。二元論的世界観は自分は他者から独立して存在するという幻想を与えて」しまう。



少し長い続き---


サティシュ・クマールの「君あり、故に我あり」を読んだ。もう2回目だが、これが飽きない。いつものように気になるところに線を引いて読んでいるのだが、その線が読み返す度に、どんどんと増えて行く。そのうち本全体が線だらけになるのかもしれない。今まで、こうしたことは無かった。

この本の中で、今もっとも気になるところは、バートランド・ラッセルとの対話のところ。----179p
ラッセルは核兵器廃絶を主張するのだが、クマールはその主張だけでは不十分だとする。ガンジー主義的視点が不可欠であり、それがない限り、核兵器を仮に廃絶出来たとしても、また新たな核兵器と同様なものがが生まれてくるとする。このガンジー的視点とはなにか。クマールは言う。----186p




More 続く
FACEBOOKの玉川啓さんの記事を見て、驚いた。これは始めて知った事。僕は直接この人を知らない。ある人がシェアしていて知ったのだが。

何とあの福島の免震重要棟は半年前に完成。だから何とか3/11に間に合ったのだと。もしこの施設がなかったら、おそらく日本は-------。URLは下記。

http://www.facebook.com/profile.php?id=100002414870959

大飯にこの施設がなくても、その計画があれば稼動させるというのだから、経産省=経団連=野田政権の狂気は極まった。再稼動へ突っ走る「命知らず」の輩。再稼動賛成派だけお亡くなりになるのなら、それはそれとして了としよう。

企業/資本家は労働者がいなくなったら、企業自体が成立しないわけだし、同様に政権は市民なくして成立しない。こんなことを言わなければならない不幸。
この資本家社会を支えている、もう一方の主役は市民/労働者であることを知らないわけがない。その命を奪おうとするのだから---------。かくてこの資本家社会は崩れゆく。

どうやら、野田政権は4/14、大飯原発の再稼動を決めたらしい。菅が浜岡を止めたとき、3.11からわずかしたっていないというその時に、他を再稼動させることと取引を諮ったという経産省から見れば遅すぎた、やっと願望を果たした、ということなのか。恐るべし経産省! ここの官僚たちは日本経済を動かしているという自負があるらしい。実は彼らは経団連に寄り添っているに過ぎない。寄り添い、逆らわないだけ。

今回は事故ったら、政権の4人が責任を取るといっていたが、これは命を差し出すことなのだろうか。潔し! でも4人だけでは不満だ。人数が足りない。もっと増やす必要がある。肝心の経産省から何人出すのか、経産省自身が明言すべきだろう。
また電力会社、経団連、賛成議員、----いくらでも稼動賛成派いる。4人とはけち臭い。

市民はすでに昨年、強制的な計画停電で、電力不足とかいう名の下に責任を一方的に負わされた。(今そのことを問題にするのはひとまず棚上げにしておこう。)今度はこちらから、不足するなら、その時点で電気を消す覚悟があることを敢えて表明しようじゃないか。たかが電気ごときに命をさらす気はないのだ。
自前の核兵器をつくる技術と原材料を継続的に維持したいという、「原子力の平和利用」という名を利用してきた自民時代からの政治を考えると、何としても大飯再稼動を諮ろうとする野田政権の動きを理解できてしまう。電力の需給、原発の安全性なんて、無関係。ポーズでしかない。

もしこの自前の核兵器論を今、公言すれば、結構、再稼動賛成論者が大手を振って出てくるのではと思う。またぞろ北朝鮮脅威論を軸にPAC3とか言う迎撃ミサイルを配備したのは、その一貫だろう。ついでに言えば、ロケットも戦争と平和が共存しているわけで、原発とまったく同じ。ミサイルなのか、なんとか衛星なのか、によって善悪の判断をしたところで無意味。ロケット開発を即やめるべきなのだ。
宇宙開発への夢、なるものが語られるが、「原子力、明るい未来のネルギー」という横断幕とどこが違うのだろう。科学は科学でしかないのであって、夢や希望をくっつけて科学を語るのは、それこそ科学的ではない。
中部横断自動車道の2回目のアンケートが国交省から郵便で届いた。これは宛先を書かずに該当地区全体に配達するという郵便物。一方「中部横断自動車道八ヶ岳南麓の会」が発行した「アンケートで道路計画を変えることができます」という表題のチラシを手にした。この会は8つほどの団体の集合体のようだ。
この任意団体は中部横断自動車道という高速道路には基本的に反対の立場だとした上で、いわば「妥協案」として、国道141号を改良する第3案を推すのだといい、賛同者を募っている。さらにこの3案は1回目のアンケート回答でこの141号線の改良希望が多くあったので、新たに追加された計画案で、「みんなの声が国に届いた結果です」と謳う。

さてこの第3案を国交省の2回目アンケートの資料から見ると、2車線を4車線に拡幅するというもので、これに伴う買収対象家屋は300から400戸になるとある。
これは住民が他の住民に移転を迫るという、何ともはや、言いようのない、悲しい話だ。原発を過疎地に押し付け、自分はノホホンと生活している構造とこれではまったく同じである。他人に負を押し付けて己の生活を維持するという発想が住民から出てくるのだから、やり切れない。他人の犠牲の上に己の生活を成立させる、そうした社会の仕組みで良いのか-----僕が3.11の原発事故で最も学んだことの1つなのだが。
 今回のアンケートにも前回のアンケートにもこの道路について、必要とされる理由がさまざま並んでいるが、それらはみな道路を造るがためのあとづけの理屈。なぜ道路が必要なのか。根っこは道路建設=経済成長という考え方から発想されているところにある。道路を作れば経済は成長する、成長するには道路が必要だ、いつも道路と経済成長はワンセットで、僕らの前に立ちはだかってきた。でもこの発想はもはや神話の領域にある。原発安全神話が崩壊したように、もうとっくに経済成長神話も崩壊しているはずなのだ。
 実際本当のところ、経済の拡大再生産はおしまいになっているのであり、そのことに気が付かない人達があがいているのが今。経済成長神話が54基の原発を生んだのであり、全国を張り巡らせている高速道路網だ。経済の縮少再生産によってしか展望は開けないし、この道路をはじめ、原発の本質も見えてこない。



More 続く
東北の鬼、武藤類子さんの本「福島からあなたへ」を読んだ。あのメッセージがいつの間にか詩になって蘇っていた。
抑制の効いた、時に効きすぎたと思える言葉の優しさが、声高な叫びよりもかえって東北の鬼達のたぎる怒りを僕達に告げている。
チェルノブイリの事故をきっかけに、反原発の活動を始めた類子さん。でもそのとき、僕にとってチェルノブイリは他人事だった。千葉の知人が里親となって、ソ連の子ども達を招待していたことは知っていたが、僕にはただそれで終わりだった。その知り合いの名は鶴田静さん。(http://www.t-shizuka.com/)
 類子さんと僕、この気づきの違いはどこから来ているのだろう-----。
 未だに気づかない、あるいはその振りをしている知り合いを思うとき、あのときの自分を思い出す。「お前だってそうだったよね」
だから気づくのは本人でしかない。他人が手を出す領域じゃない。僕はその知人を黙って待つしかない。僕はただただ反原発の思いを表していくだけ。

]ナオミクライン著 「ショックドクトリン」上下(岩波書店刊)を一気に読了した。「惨事便乗型資本主義の正体を暴く」というサブタイトルが付いているように、まさに惨事に便乗して、惨事こそチャンスだ、と利益を追求していく資本主義=企業の露骨な姿がそこにある。自然災害しかり、戦争しかり。経済のグローバル化の本質が描かれる。それは新自由主義とも言われる、ネオコンたちの姿。
民営化を強要して、そこに企業を参画させ、その国自体を乗っ取る。だから惨事さえも自ら作りだすことすら平気だ。詳細な事実から1つ1つ立証していく、圧倒的な筆力。参考文献だけで、全体の20パーセント近くにまでなるボリウム。
惨事は今まで躊躇っていて実現できていないことが一気にできてしまうという絶好のチャンスだという認識。惨事は一切を白紙化することであり、白紙である以上、どんな絵でも好きなように描けてしまえる、という訳だ。取り上げられた国はロシア、中国、イラク、ポーランド、南米、南アフリカ、タイ、インドネシア------
なかでもイラクへのアメリカの攻撃は、つい最近のことであり、生生しい実態が明らかにされる。


More 未完 途中
ホテイシメジなるきのこを知った。裏の赤松林に足音がしたので、近づいてみると、案の定、きのこ取りだった。こちらの気配にも気づかずに、まだ下を向いて採取している。ビニール袋にはかなりの量のきのこが詰まっているのに。やっぱきのこ狂いはいるもんだ。
「本当は教えたくないんだ」とその夫婦は言った。だが、ここの山はうちのだと嘘を言って聞き出したのが、このホテイシメジ。「大根と煮ても旨いし、炒めても旨い。でも酒を飲むと悪酔いするぞ」と脅された。ほんとかいな、取らせないために、そう言ったんではないか、と疑い、物の本やサイトで調べると確かに悪酔いのことが書いてあった。人によっては動悸が激しくなり、息苦しく、二日酔いなど、かなり嫌なことが書いてあった。


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みすず書房から出版された、山本義隆さんの「福島の原発事故をめぐって」を読んだ。この間、多くの反原発関連の本が出版されたが、著者の様な指摘は皆無だったと言ってよい。100ページ余りの小さな本だが、そこには見落とされていた2つのことが書かれている。1つは原発はもともと原爆=核兵器製造機なのだという事。もう1つは科学技術を持ってすれば自然を支配できるという傲慢な思想の最たるものが原子力工学なのだという事。

●前者について。
原発は本来原爆=核兵器製造機であり、電力製造は2義的なものとして考えられたにすぎない。著者は言う。この平和利用という考えはマンハッタン計画(原爆製造計画の愛称。広島・長崎へ原爆投下をした)の延長上にある。アメリカは核兵器製造技術の独占を目論んでいたが、すでにソ連が核兵器開発を成功させたことを知り、この核開発競争に勝つには核技術の一部を民間に開放し、その専門的な技術の更新、技術者の養成を民間メーカーと電力会社に任せたほうが得策だという判断をした。それが原爆の民生利用という考え方の狙いなのだと。そして核兵器保有が大国の条件だという戦後世界支配体制が確立される。
日本では1955年に原子力基本法を成立させ原発導入が決まった。その中心にいた中曽根康弘らは戦後世界のパワーポリティックスを敏感に感じ取り、さしあたりは核技術を原発という産業規模で習得し、核武装という将来的選択肢も可能にしておくという大国化への夢を担保しておく必要があったのだと著者は歴史を振り返る。
ここに原発開発は私企業の電力会社の自主的な選択ではなく、政権党(自民党)と官僚=通産省のイニシアティブ、いわば国策民営という基に行われていくという形が出来あがる。
岸信介は回顧録のなかでずばり言う。「原子力技術は平和利用も兵器としての使用もともに可能である。平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。核兵器保有の潜在的可能性を高めることによって、国際的な発言力を高めることができる」(本書8頁)そしてこの考え方は一貫して政権党/自民党に受け継がれていく。実際、自民党の石波茂は公言して憚らない。
原発はエネルギーを確保することにあるのではなく、いつでも核兵器を作れる環境にしておくことに狙いがあることは事ここに至って明確だ。僕流に言えば原発による電力エネルギーの生産は核兵器製造を隠蔽するためのものに過ぎない。
こうした歴史を見てくると反原発は自然エネルギーへの転換を求めることだけでは解決できないことがはっきりしてくる。おそらく自然エネルギーの比率は今後高まるに違いない。だが、全原発廃炉はエネルギーシフトの転換だけを追求しても不可能なのだということは明白ではないか。
1982年に始まる中曽根内閣のもとでレーガンと交わされた新日米原子力協定により、従来プルトニュウムは核兵器の材料となることから、その拡散には厳しい規制にあったが大幅に緩められる。かくて日本は使用済み核燃料を再処理して再利用する核燃料サイクルをスタートさせる。ここから抽出される核分裂性のプルトニュウム239やウラン235は再処理されずに得られる核物質に比較して強い核分裂性を持ち、強力な核兵器の原料となる。
現在日本には非核保有国でありながら、核兵器1250発分に相当する10トンのプルトニュウムが貯めこめられている(23頁)。自前の核兵器を持ちたいという者にとって原発ほど愛おしいものはないではないか。
「日本はウラン濃縮技術を所有し、人工衛星の打ち上げに何度も成功している。その気になれば何発もの核弾頭と運搬手段としての長距離弾道ミサイルを比較的速やかに作り出すことができる」(23頁)
「潜在的核保有国の状態を維持し続け、将来的な核兵器保有の可能性を開けておくことが、原子力産業育成の究極の目的であり、原子力発電推進の深層底流であった」(24頁)




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原発容認派は自前の核武装を推進しようと企む確信犯だと近頃思い始めた。

福島の、日本の、そして世界中の人の命は元より、あらゆる生命体が危険にさらされている、この機に及んでもなお原発を容認できるのはなぜなのか、ずーと疑問に思ってきたが、原発そのものの事を勉強し始めて、そう理解するとすーと納得ができてしまう。

その原理は原爆と同じなのだから、原発はもともと核の平和利用である訳がない。平和という美名のもとに着々と核開発が進行している。平和利用といって、原発を爆発させ、人々の命を危険にさらし、世界の安定的平和といって、他国に戦争を仕掛けて、人々を殺害する。これら全て平和という名において行われる。平和とはかくも反平和的なのだ。僕らは平和という言葉についつい幻想を抱いてしまうのは何故なのだろう。彼らにとって、御しやすい、人の良い存在をいつまで僕らは続ければ気が済むのだろう。

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3.11の原発震災=爆発以降、原発そのものの「勉強」をやっと始めた。今まで原発そのものことなど事さらに知ろうとしないで過ごしてきた。反原発という思いは持っていたけれども、特に原発について具体的に知ろうとはして来なかった。その必要性に今やっと気付いたのだ。
未だ原発を容認している人達はいつ気が付くのだろうか。もう1回、2回の爆発をしないといけないのか。それとも彼らには他のもくろみがあるのだろうか。

1 原発はウランやプルトニュウムに中性子なるものをぶつけて核分裂の連鎖反応を起こさせ、臨界状態を作り出すのだが、この原理が何のことはない、本質的には原爆と同じだということ。
2 原発は臨界状態を作り出して、膨大なエネルギーを取り出すのだが、(水を沸騰させて、タービンをまわして発電する)同時に核分裂はこのエネルギーと一緒にさまざまな放射性物質(死の灰)を生みだす。
3 放射性物質は炉=圧力容器の中に閉じ込められていて、薪ストーブの灰のように取り出すことは出来ない。これらは今回のような事故か廃炉のときにしか、外部に出して処分できない。
4 およそ機械なるものは予想される事故を実験し、その安全性を確認し対策を事前に考えることをしてきたが、原発はこの実験をすることができない。
5 放射性物質はそれぞれ核種によって個別の半減期なるものが設定されている。ヨウ素131という半減期8日という短いものから、プルトニュウム239のように2万4100年という途方もない半減期もある。さらにMOX燃料(天然ウランに3%のプルトニュウムを混合したもの)から生まれるプルトニュウム242は何と37万年。そもそも半減期を繰り返したとしても結局はゼロにならない以上、地球上から無くなることはない。
6 原発から抽出されるプルトニュウムは核爆弾を作るのに欠かせない核種。今もって原発に執着する人達の本当の狙いは核兵器を日本が独自に作るべきだという事にあるからではないか。
7 放射性物質から出る放射能に「しきい値」はない。基準値と言われるものは我慢値であり、許容値ではない。低線量被爆でも大いに健康に問題がある。
8 放射性物質を含んだ使用済み燃料の最終処分は決まっていないが、仮にその方法が決まったとしても結局ゼロにはならないこと。
9 原発にも当然ながら寿命があり30年から40年と言われる。廃炉になり放射性廃棄物になる訳だが、100万KW/年の原発で、その量はおおよそ100万トン。



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NHK教育TV 8/14日 朝5時からの「フクシマを歩いて 徐京植 私にとっての3.11」を見た。

そこで語られた「根こぎ」という言葉に新鮮な驚きを覚えた。
どうやら根こぎとは根こそぎという言葉と同じ意味のようだが、この「根こぎ」という言葉は新鮮な響きがあり、訴える力があった。
そして原発は命は元より命が育んでいる人生こそが根こぎにされる、のだということに、気付かされた。

この映像の中で、徐さんは原発震災以来、モノディアロゴスと言うブログを発信しているスペイン思想研究家の佐々木孝さん宅を南相馬市/原発から25キロ圏に訪れて対談をした。佐々木さんはそこで以下のようなことを話した。

「ここから避難しようと呼びかける、自衛隊や消防の説得に応じずに、そこに住み続けようとする老婆の姿の映像を見たが、それはまさにに己の人生を抹殺しようとする国家と対峙している姿そのものなのだ」 「命を掛けて己の人生を全うしようとする強い意志がそこにある」

徐さんはそのことを人が「根こぎ」にされる、と表現する。


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近所の新しい家がオール電化にするという。オール電化は80Aが必要というから、かなりの電力、通常の家=我が家の、3倍近くだ。

東電は電力不足を叫びながらも「申請があったので、法的に供給義務があるから」という理由でOKをするらしい。まあ、もともとオール電化は東電の作戦なのだが。

実はこれ、東電から、話があり、わかったことなのだが。なぜか。うちの敷地内に東電の電柱があり、80Aを通電するにあたって、その電柱に高圧の電線を敷設する工事が必要で、地主に許可を求めてきたから、という次第。



More続く
「懐かしい未来---ラダックから学ぶ」という本を手に入れた。入手先はナマケモノ倶楽部
原題は「ANCIENT FUTURES---Learning from Ladakh」 著者はヘレナ・ノーバーグ・ホッジ 最近、公開された映画「幸せの経済学」の監督だ。 


このタイトル、考えさせるものがある。懐かしい、とは過去のことなのに、未来と続く。未来が懐かしいというのだから、いささかややこしい。

懐かしい過去なら、すっきりしてしまうのだが。ここがこの本のテーマなのだろう。
おそらく、あの過去を、懐かしく思える程の素晴らしかったあの過去を、未来にしたいという思いではなかろうか、と。

ラダックといえば、言わずと知れたダライラマの亡命政府があるところ。



懐かしい未来 ラダックから学ぶ

ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ / 懐かしい未来の本






More続く
           

時折、地元の人と話をしていると、かなりシビアなテーマでも、「大丈夫だー」とか、「問題ないよー」とか、その根拠や理由を示す事もなく、自分の都合だけでものをいう人が多い事に気づかされる。こういう言い回しは実は行政にもあって。
昨夏、僕の住んでいるすぐそばで火事があり、今更ながら界隈の消防体制の不備に愕然とし、消火栓を設置する要望書を市に提出した(個人名では受理されず、どういう訳か行政区長名で提出することになっているが、この行政区なるもの問題あり)。界隈は上水道が敷設されていないので、消火栓設置はかなり難しいこともあって、行政はいくつかの代替案を提示してきたのだが。


More 続く
                
1 1湧湧は1円と等価ではない。
2 マイナスは借金ではないし、プラスは財産ではない。
3 お助けした方がプラスを支払ったって構わない。
と湧湧では書かれているし、語られてもいる。

この考え方は円通貨のルールや円社会の理念とは違うところに湧湧があることをはっきりとさせていて、私には小気味よい。
果たして現実はどうなのだろうか。そのように事が動いているのだろうか。
湧湧に参加すれば、直ぐにこうしたことができるものではないだろう。
円社会にどっぷりと浸って生活している私達にとって、円社会で培われた意識から遥か遠く離れることは、少なくとも私にとっては正直、至難の業である。



More 続く
   
沖縄/普天間の問題が解決できないかのように見える。それは僕達、本土が一切の負の部分を沖縄に押し付け、日々のほほんと暮らし続けているからだろう。明治時代の琉球処分を引き合いに出すまでもなく、本土は沖縄を踏み台にして今まで生き伸びてきた。今日、本土があるのは沖縄に犠牲を強いて来た結果だ。
沖縄の痛みの共有なんてして来なかった。今も身を持って、その痛みを感じようとはしていない。それは僕だけのことなのかもしれない。「9条を堅持して日米同盟を解消し、米軍に出て行ってもらう」-----確かにその通りだが、この正論が発せられてから何年経つのだろう。この正論には沖縄の痛みが抜け落ちていないだろうか。というよりも正論を振りかざすことで、痛みを共有することを避けてきた気がして仕方がない。


More 続く
高木仁三郎さんの「原子力神話からの解放」を一気に読んだ。1999年9月30日の東海村JCOの臨界事故を受けて、2000年に書かれた本。高木さんはこの本で9つの神話を取り上げ、その神話に呪縛された結果として、その事故が起こったことを指摘。この神話から解放されない限り、また事故が起こることは自明のことであり、今日のフクシマが起こることを予言している。

More 続く
「自然農という生き方」を読んだ。辻信一さんと川口由一さんの対談。聞き手は辻さん。自然農といえば通常、HOW TOもの、農業技術書だと思ってしまうのだが、それが「---という生き方」とある。なかなかに興味深く、考えさせるタイトルである。

果たして、このタイトルのもつ意味は何なのか。しかし自然農の方法を考えてみると、そのまま人の生き方につながっていることは確かなことのような気がする。本書のあちこちで川口さんが発言している象徴的な言葉が、「命の世界」という言葉。この「命の世界」とは何なのだろう。


More続く
                       
東電など電力会社との縁を切り、太陽電池パネルによる電力の自給を100%実現している人は日本で何人いるのだろう。そんなライフスタイルを以前から続けている関+森口さんちの「見物会」があるというので出かけてみた。以前訪ねた時よりも発電量は大幅に増えていて、現在、1日に使用できる電力量は約1000Wh。100W電球10時間分。増えたとはいえ、これですべて賄っているというのだから、そうたやすく真似できるものではない。
中でも一番関心したのは、その家の同居人すべてが同じ方向を向いている事だった。このライフスタイルを貫くには同居人との意思一致がなければ当たり前だけれど、とてもとても不可能なことだからだ。
さらにもう一つ、潤沢な資金と太陽電池パネルを置ける十分な場所があれば何のことはない!?電力自給は可能だ、ということを知ったことだった。
潤沢な資金はとりあえず脇に置いて、何といってもパネルを置くスペースによって自給が可能か否かが決まってしまう訳でまずはスペースを探してみる。うちの場合、やはり屋根しかない。南側の屋根にどれだけパネルが載り、発電できるかだ。



More 続く
3.11の地震の時、外にいて味噌用の大豆をかまどで煮ていたのだが、家が木が横にかなり揺れていた。歩く時もフラットきた。震度は5。
これを契機に家の耐震が気になりだした。いままで一応やってきたつもりだったのだが、かなりモレがあることに気がついた。
先ずは階段についていなかった手すりをつけた。揺れる中で階段を下りれるのか、ということから。キャスター付きの動く棚をワイヤーでひっぱた。一応これで耐震設備は完了のつもり。

手すりは隣地に植林されていたヒノキをもらい、皮をむいてセットした。手すりを支えるブラケットは既製品。ヒノキはまっすぐではないので、壁との距離が均一ではないためブラケットがヒノキの中央にきていないところがあり、不安定。そこで数を増やしてクリアすることに。

3.11を自然災害と原発災害とに明確に分けて考えないといけない。両方を一緒にしてしまうと、問題の本質が隠されてしまう。どうも「がんばろう日本」というスローガンはいかがわしい、臭いがしてしょうがない。
自然災害と原発災害は全く別個のもの。
「がんばろう日本」や「信じよう、日本の力」のように天災と人災を同じ地平で語ってしまっては事の本質を見失ってしまうのではないか。
# by kyureki | 2011-04-10 18:51 | 反原発
2011年4月4日、19時からの海への放射能の垂れ流しを聞いて、結局、これが僕らが選択してきた文明の末路なのだと思った。小魚が被爆し
、食物連鎖で大きな魚へ、そしてそれを食べる人に。もう放射能から逃げられはしない。

確かに反原発の運動もしてきたけれども、原発は54基も出来てしまった。東電は悪い、原発学者は悪い、推進してきた政府、経済界は悪い、その通りだし、オトシマエはきっちりとつけてもらいたいのだが、この垂れ流しの現実は避けようもない。



More 続く
下記ブログに触発されて、緊急避難用として、車の中古バッテリー12Vに、インバーターを接続して、100Vの省エネ電球を2個、合計30W、今日の計画停電時にはじめて、ONにした。ろうそくの明かりや灯油ランタンよりは断然あかるい。当然か。たったの1時間で停電が終わってしまったのが残念?!だった。


More続く
かねてから気になっていたのだが、今回の地震を機に、12vの自動車のバッテリーにインバーターをつないで、100Vの電気製品を動かす、電気の自給体制をつくる練習を始めた。計画停電の時にこのスタイルで電球形蛍光灯60wをつけようと。消費されるのはわずかに10W。
バッテリーにソーラーパネルをつなげばよいのだが、今回は100Vの交流電源から充電器をつかって、蓄電し停電に対応しようと。
このバッテリーは以前軽トラを新規購入した時に古い車に乗っていたもの。でも充電は早かった。はたして何時間もつのか。楽しみではある。ついでにヘッドランプをインバーターを介さずにダイレクトにつなごうと思ったのだが。60wのヘッドライトじゃ、バッテリーはもたない、と言われて。
ある会合で、山田征さんが、電力会社は安定的に電力を供給する義務があるから、原発を作る時、同じ能力の火力か水力発電所を万一に備えてバックアップとして作ることになっている、と話されてました。
何のことはない、もともと原発は不用だということのこれ証明だと、その時思いました。電力不足として、計画停電なるものが行われているが、このバックアップも損傷したということか、そのことに東電はふれていない。計画停電は反原発の動きを抑えるための政治的戦略に違いありません。

僕がいま最も聞きたいのは原発推進派/賛成派の論理です。
「祝の島」を見た。監督が対談の時に、枝野官房長官の発言、「予想できなかった大きな津波が原発をおそい----」に対して、自然の動きを予想出来ると思えるのが問題、自然に対する傲慢で不遜な態度、といわれていましたが、映画「祝の島」は僕らの自然観を試しているように思えた。