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森達也の『A3』を読む<その6>

●マスメディアは社会の願望を反映する

オウムがらみの報道は当時、圧倒的な物量だったと森達也は書く(本書上巻135頁)。サリン事件が起きた「95320日からほぼ数カ月にわたり、新聞の1面にオウムが載らない日は皆無だった。週刊誌や月刊誌などは1年近くのあいだ、毎号のようにオウム関連がメインの特集記事だった。特集や臨時増刊も数えきれないほどだ」さらにテレビなどを加えれば、凄まじい物量だという。 

---当時のマスメディアがオウムを語る際に使ったレトリックは結局のところ以下の二つに収斂する。

①凶暴凶悪な殺人集団 

②麻原に洗脳されて正常な感情や判断能力を失ったロボットのような不気味な集団

この二つのレトリックに共通していることはオウム信者は普通ではない事を視聴者や読者に対して強く担保してくれるということだ。

それは社会の願望である。なぜならもしも---普通である事を認めるならば、あれほどに凶悪な事件をおこした彼ら「加害者」と自分達「被害者」との境界線が不明瞭になる。---あれほど凶悪な事件をおこした彼らは邪悪で凶暴であるべきだ。社会のこの願望にマスメディアは抗わない。もしもオウム信者は普通であるなどとマスメディアでアナウンスしたならば間違いなく視聴率や部数は激減しただろうし、抗議も殺到していたはずだ。

だからメディアは繰り返し、いかにオウムが異常な存在であるかを強調した。それも戦後の日本において、他に比べるものがないほどに圧倒的な量と時間をついやしながら。---

サリン事件は---その時、その場所にいれば、誰しもが被害者になった可能性があったからこそ、「大規模な被害者意識が、圧倒的なメディアの報道によって、国全体で共有化された」(本書上巻101頁)

繰り返して言えば、ほとんどの日本人はメディアによって、オウムの信者は普通ではないと刷り込まれていたと言う事になる。

こうしたメディアと視聴者/読者の関係性について、森達也は下巻58頁で、以下のようにも書いている。

「人は---多面的だし矛盾している。でもメディアというフィルターは、この多面性と相性が悪い。特にマスメディアの場合、相反する場合にはどちらかを削ぎ落としながら、多くの人が支持する単面ばかりを探して強調する。

つまりメディアとマーケット(視聴者や読者)の相互作用。互いに互いを刺激しながら高揚する。言ってみれば、視聴率や部数という神経伝達物質をやりとりするニユーロン(神経細胞)とレセプター(受容体)の関係だ。削ぎ落とされた端数はやがてゼロ(なかつたもの)になり、残された(わかりやすい)整数ばかりがすべてになる。

これはメディアの必然だ。回避はできない。だからこそこの端数に、常に思いを巡らすような接し方(リテラシー)が必要だ」

●マスメディアは「わかりやすさ」を追求する

マスメディアのオウム報道を総括して、森達也は以下のように述べている。オウム以降の今のマス媒体の特性をこれは見事に言い当てている。いささか長くなるが引用しておく。

----万人に対する「わかりやすさ」(見方によっては視聴者をバカにしているかのような過剰な説明)への志向は、テレビが普遍的に保持する媒体特性のひとつだ。-----

「わかりやすさ」に留意しないと、視聴率は劇的に落ちる(あるいはテレビ関係者は落ちると思いこんでいる)。なぜなら視聴者の大半は、一過性の情報を提供する装置であるテレビに、複雑な事象や多面性の提示など求めていない。だから少しでも退屈だと感じると、あっさりとチャンネルを変えてしまう。---視聴率を広告収入に換算するテレビとしては、視聴率の低落は業績の悪化へと直結する。

こうしてテレビは、単純化・簡略化を継続的に自己目的化するメディアとなった。これもまたポピュリズムだ。

つまりテレビの臆面もないほどの「わかりやすさ」への希求は、テレビと視聴者との相互作用の帰結でもある。---テレビの場合、売れる商品の特性は---わかりやすくて刺戟的であるということだ。

この帰結としてテレビは、複雑な事象を伝える事がとても不得手なメディアとなった。もともとその属性はあったけれど、特に、オウム以降、この傾向は急激に促進された。

なぜならば、国民一人ひとりの危機意識が、オウムによって激しく刺戟されたからだ。今危機が目の前にあると思い込んでいる人にとって重要なことは、多くの視点や選択肢、途中の経過や理由などではなく、最終的な結論だ。右と左のどちらが自分にとって安全かなどと煩悶していたら、迫りつつある危機から逃げ遅れる。理由や経過はともかくとして、結論だけがあればそれでよい。必要なことは自分にとって有害か有益かという二者択一の迅速な判断であり、境界線上の曖昧さや端数は捨象され、煩悶や葛藤などは何の価値も持たなくなる。---

発動したこの危機意識を、テレビは視聴率追求の原理でさらに促進する。なぜならば「敵」の存在を喧伝して危機を煽れば、視聴率は劇的に上昇する。----逆に「敵」の不在や沈静化を訴えれば、視聴率は下がる。もちろん他のメディアも、その原理は共通している。ただ、テレビは現在進行形の媒体であるだけに、その市場原理が露骨に表れる」(本書上巻342頁)

と長々と引用したのだが、オウム以降の今日のマス媒体の特性がここにあると言えるだろう。今のテレビ番組で最も持て囃されている番組と言えばバラエティーとかいうもの。それは「わかりやすさ」の典型とも言える番組。ここには思考するなどというものは一切存在しない。敢えて言えば思考を拒否する時間とでもいったものだろうか。視聴者が求めるから、バラエティー番組が多く作られ、多く放送されるので、視聴者が喜び、視聴率が上がるという相互補完関係。ややこしい複雑な事はもう結構だ、それは両者がともに思考を中断し、それで良しとしているからこそ、その相互補完関係が続いていると言う事だろう。

●付 「政府が右と言ったら、その反対のことは言えない」

これはNHKの籾井新会長の2014年2月25日に行った就任会見での発言である。就任の記者会見での発言については従軍慰安婦問題ばかりが報道されたが、「政府が右と言ったら、その反対のことは言えない」と言う発言はどういう訳か、ほとんどのメディアは沈黙していた。この極めて突出した、あからさまな発言は従来、曖昧だったNHKの本質をズバリ言い切ったという点で「評価」できる。

マスメディアは「権力をチェックする機関」だとか、「社会の木鐸だ」と言った、もはや今となっては死語となってしまった事を実証して見せた「見事な」発言だった。この言わば建前論すら通り越して、権力には従うというまるで真逆の論。これほどスッキリした発言は未だかって聞いた事がなかった。一体いつごろまで、この建前の言葉に力があったのだろうか。恐らくマスを求めたと同時に、それらは放棄され無くなったと想像できる。

公共放送という名の下に視聴料を徴収して、その公共性を担保しているはずのNHKが政府のプロバカンダ機関になるというのだから、これではどこかの国々と全く同じである。一体、公共とな何なのか。

さて、森達也はこの籾井発言について、どう思っているのだろうか、ブログを見た。

http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/links.html

その中に気掛かりなリンクが2つあった。

一つは http://diamond.jp/articles/-/50559

もう一つは http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00069.htm

前者はずばり、「NHKよ、政府が右と言っても左と言える存在であってくれ」というタイトルで記述され、後者は本書の解説を書いた斎藤美奈子との往復書簡だ。

前者の中で「「慰安婦はどこの国にもいた」発言ばかりが強調されて問題視されたけれど、本当に深刻な発言は(領土問題の報道についての文脈の中から出てきた)「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」のほうだと思う。いや思うじゃない。明らかにこっちのほうが問題だ。でもやはり、その指摘は少ない」と書いている。そして「---今のNHKの報道はひどい。まさしく右と言われたら右と言うレベルだ。でも番組制作は頑張っている。急激に強くなった逆風に歯を食いしばりながら作り続けている制作者を、僕はたくさん知っている」

後者の方では、籾井会長が個人的見解を就任会見という公の場で発言したことを謝罪している事について、「NHKという公共放送の舵取りの一人であるからこそ、個人的な思想信条はつねに表明され、多くの人の目や耳に晒され、あらゆる角度から批判されねばならない。そして場合によっては「ふさわしくない」として解任すればいい。こうした立場に就いたら個人的な思想信条を表明すべきではないとするならば、彼らが密室でどのようなことを言ったりやったりしているのかがわからなくなる」と森達也は述べている。

いずれにしても詳しくはそれぞれのリンクに譲りたいと思うが、森達也はここでも真っ当である。